社会のアソビ大全

1.本記事の目的
 タイトルをみて、『世界のアソビ大全51』の通称である『世界のアソビ大全』の誤字であると思われた方もいらっしゃるだろう(以下、当該ゲームソフトのことを『世界のアソビ大全』という)。しかし、本記事は、『世界のアソビ大全』をはじめとするゲームとの対比から、社会を多様なミニゲームから構成される「社会のアソビ大全」とみなすことで、社会における人々の行為やら構造やらを(過度ともいえるほどに)簡易的に記述する可能性を示す試みといえる。したがって、タイトルはこれが適切なのだ。
 余談だが、「ゲーム脳」という言葉が、「現実」を「ゲーム」の延長線上に捉えるような見方が、かつてはしばしば非難のニュアンスを伴って用いられた。しかし、むしろ本記事では、徹底的に「ゲーム脳」となって考察を進める。

2.『世界のアソビ大全』
 本題に入る前に、アナロジーの素材となる、『世界のアソビ大全』の概要を説明しよう。本ソフトは、将棋や花札といった、日本では親しまれたものから、ルドーやバックギャモンと呼ばれる海外の遊戯を元にした様々な(本来電子媒体に依らずにできるという意味での)アナログな遊戯を、ゲームソフトでプレイできるというものである。ここで、プレイ可能な遊戯を「ミニゲーム」と呼ぶことにする。『世界のアソビ大全』というゲームは、ミニゲームの総和、総体であって、少なくともひとつのミニゲームをプレイせずに『世界のアソビ大全』というゲームをプレイすることはできない。言い換えれば、パッケージとしてのみ『世界のアソビ大全』は存在する(仮にそうでないとしても、以下読む場合にはこうした仕様のものとして扱う)。
 さらに、ここで確認しておきたいのはミニゲーム間の互換性・連続性のなさである。たとえば、同じトランプカードという道具を使う大富豪とポーカーとであっても、ミニゲームの規則上可能な挙動や、最適な挙動は異なる。また、(たとえば大富豪で手札を捨てたからといって、それを原因としてポーカーで同じ絵柄の手札を捨てなければならないといったような、)あるミニゲームでの挙動が、同時に行われるか、又は後続する、別のミニゲームの挙動や帰結に影響を及ぼすということはない。互換性のなさをヨコの独立性、連続性のなさをタテの独立性と呼ぼう。『世界のアソビ大全』は、ヨコの独立性とタテの独立性を基本的にはともに満たしている。言い換えれば、異なるミニゲームのルールが衝突しあうことはなく、よってルール間の調整の必要もないし、また、あるミニゲーム下のまさにその挙動が、他のミニゲームのルール下で現れることもない(ある観点から同じ挙動が許容される場合もあろうが、それは同「種」の挙動であって、一回的なある挙動とは区別されねばならない)。

3.「社会のアソビ大全」の視座
 さて、『世界のアソビ大全』の概観は十分した。次は「社会のアソビ大全」である。「社会のアソビ大全」もまた、『世界のアソビ大全』と同様に、パッケージにすぎない。よって、「社会のアソビ大全」のプレイヤーである我々は、それを構成するミニゲームの少なくとも一つのプレイヤーであるはずである。一体、いかなるミニゲームが存在し、我々は、あるいは彼らは、いずれのミニゲームをプレイしているのか。
 しかしそもそも、読者の方のなかには、「社会に、お前のいうミニゲームが存在するということ、また、誰しもが何らかのミニゲームをプレイしているということを、なぜいえるのか」というご意見をお持ちになる方もいらっしゃると思われる。これは健全な懐疑ではあるが、少なくともそれは、論証というプレイが求められる何らかのゲームのルールに基づいて以上の私の文章を評価する者の挙動と思われる。よって反論完了。
 ……しかし、私も少なくともそれに類するゲームに参加しているから、これは属人論法じみたものになりかねず、したがって適切な反論とはいえない可能性があることは了解している。よって、真剣に反論するならば、これは社会に関する認識装置、発見ツールであって、その能力に依存して評価されるべきであり、かつ、その能力については、内在的な観察を待たねばならないということを述べておく。さらに、4.「社会のアソビ大全」に収録されたミニゲームにおいて、具体化したかたちでミニゲームに否応なくプレイヤーとして参加させられていることが示されるものと思う。
 したがって、まずは、「社会のアソビ大全」全体について、『世界のアソビ大全』と比較しながら、説明していくこととする。
 第一に、前述した、ヨコの独立性について。「社会のアソビ大全」はこれを欠く。すなわち、「社会のアソビ大全」には、ミニゲーム間のルールの衝突可能性が存在する点で、『世界のアソビ大全』とは異なる。その原因としては、他者がプレイしているミニゲームと、自身のプレイしているミニゲームとの同一性が必ずしも担保されないにもかかわらず、プレイヤー間のコミュニケーションが「社会のアソビ大全」では可能であることが挙げられる。プレイするゲームが異なり、よって従うルールも異なる複数人が、それぞれのルールの許容する挙動をなすことで、それぞれの他者から、ルール違反なり、愚挙・暴挙なりとして評価されうる。なお、このとき、当事者らが共存するためには、何らかの調整規定が必要となるだろう。
 第二に、これまた前述した、タテの独立性について。「社会のアソビ大全」は、これも欠く。すなわち、何らかのミニゲームの、(そのルールに適合的にふるまうという意味での)プレイの帰結は、そのミニゲームについてはもちろん、他のミニゲームをする際にも影響を及ぼすのだ。『世界のアソビ大全』で説明しよう。たとえば、大富豪をプレイする(『世界のアソビ大全』のなかで例外的に、そのミニゲーム内で完結しつつもタテの独立性を欠くミニゲームということに注意)。大富豪のルールでは、前回のプレイの結果としての順位について、新たなプレイの際、前回高順位だった者はより有利に、前回低順位だった者はより不利になるような操作が求められる。これは同一のミニゲーム内での操作だが、「社会のアソビ大全」では、他のミニゲームについてもこのような操作がなされうるのである。『世界のアソビ大全』でいうと(これは仮定法である)、たとえば大富豪で高順位をとった者が、ポーカーをはじめる際、大富豪での高順位を原因・理由としてジョーカーを一枚獲得するようなものだ。ある挙動の結果が、そのときプレイされていたミニゲームを継続しているか否かを必ずしも問わず、現在のプレイのための条件に影響する。因果の連鎖がプレイヤーの存在論的同一性を媒介にして延々と続く。これを身近なスポーツでいうならば、本来ならば独自の競技といえる各種のミニゲームにつき、「時間」という同一の尺度を用いて合計時間の短さを競うようにしているトライアスロンを挙げることができる(たとえば、マリオカートの「カップ」システムのように、各競走の結果の順位に得点を割り振り、その合計点を競うこともできるはずであるが、これもあるミニゲームでの帰結が、一つのゲーム全体での有利/不利につながるという点では因果関係の存続の手法である)。
 第三に、タテの独立性(のなさ)とヨコの独立性(のなさ)との交点としてのプレイヤーについて。『世界のアソビ大全』は、一つのミニゲームを選択した限りでプレイできるのに対し、「社会のアソビ大全」では、必ずしもプレイヤー本人の選択によらずミニゲームが選択され、しかもそれが同時に複数であることも常態だが、それらのプレイを強いられる。よって、必ずしも自他の従うべきルール(これについてはヨコの独立性の説明を参照)だけでなく、自身が従うべき複数のルール間での衝突さえありうる。しかも、タテの独立性は欠くから、たとえば決断によって優先して従うことにしたルールをもつミニゲームでの帰結は、優先されなかったミニゲームのルールによる評価からの影響を受けうる。『世界のアソビ大全』でいうと(これまた仮定法)、大富豪での勝ち筋として、いわゆる「8切り」をしたとき、他の何らかの(プレイさせられている)ミニゲームではそのときに「8」を出すのは「大富豪で一回休み」のような効果をもたらすものかもしれず、「大富豪における敗北」につながりかねない事態がありうる。ミニゲーム間のルールが、それぞれ独自であるにもかかわらず、プレイヤーの同一性を介して複合的・キメラ的ミニゲームとして立ちはだかるのだ(もしかすると、「ウルトラC」的な、すべてのミニゲームで最適解とされる手が一致する場合もあるかもしれないが)。この特異的な交点は、タテの独立性の欠如とは、その同時性の点で異なり、ヨコの独立性の欠如とは、あるプレイヤーが自身が優先して従うルールをもつミニゲーム内部の帰結にも影響する点で異なる。後段について平たくいえば、ヨコの独立性の欠如は、将棋をやっているときに挟み将棋の観点から他者に文句を言われることを意味するが、「知るかバカが、俺たちゃ将棋やってんだよ」と、その文句をナンセンスなものとして切り捨てることができなくなるのが、このプレイヤーの同一性とプレイするゲームの複数性による特異な点である。将棋と挟み将棋を"同時に"プレイしなければならないのだ。
 このように、「社会のアソビ大全」は、各々のミニゲームのルールは独自であり、よって禁止される挙動も異なる一方で、各々の存在者は、同時に複数のゲームのプレイヤーであることがあり、そのとき、何らかのミニゲームのルールに違反した場合や違反せずともそのルールによって評価されることに伴って、そのミニゲーム内に留まらず、他のミニゲームについても、存在者としての同一性に基づき、そのプレイヤー対して同時、または後に、様々な影響を及ぼしうるといえる。
 なお、他者の挙動について、以上のことに付言する必要がある。以上の説明は、ある存在者自身の挙動と、それによる自身についての帰結についてであるが、さらに、ある存在者がミニゲームの当事者であるとき、他のプレイヤーの挙動から影響を受け、また、他のプレイヤーに影響を及ぼす。これは問題となるあるミニゲーム内部で完結せず、他のミニゲーム等での影響を含む。UNOにおけるあなたのプレイによってスキップされた者が、まさにそれによって将棋でも一回休みかもしれないし、反対に二回行動が可能となるかもしれない。
 以上をまとめると、次のようになる。我々は、何らかの効果を期待して行為(プレイにおける操作)をするが、効果の期待は自らが参加していると認識しているミニゲームのルールによるものであるということ。さらに、各人の行為の結果は、その行為時の目的の実現を必ずしも含まないということ。ミニゲーム間での相互的連関の結果として、特定のミニゲームのルール下で期待できるはずの効果が発生しないことや、発生しても予期せぬ別の効果をも発生させることがある。これが、「社会のアソビ大全」の概要である。
 なお、それぞれのミニゲーム間での、ヨコの独立性とタテの独立性の程度は、必ずしも均一ではなく偏りがあることに注意してほしい。こうした偏りについては、各論においてその要因を説明しようと思うが、先取りして書くならば、それはミニゲームをやるためには生きていかなければならないという、プレイヤーの生物としての要請と、具体的な実践の集積としての慣習・規範が背景として存在する。このような、各々の存在者による行為とその結果との関係の仕方こそが「構造」とされるものだと私は理解している。

4.「社会のアソビ大全」に収録されたミニゲーム
(1)導入
 街にはさまざまな人がいる。携帯電話で相手をどやしながら早足でどこかへ向かうスーツ姿の者、流行りのカフェの行列におしゃべりしながら並んでいる複数人のグループ、通行を邪魔するかのように立ち止まって騒ぐ、学生と思しき若者グループ、人目も憚らずキスをする二人組等々……
 彼らは、物理的に近しい場所に存在しながらも、他者の存在にはほとんど注意を払わない。まさにそのときのコミュニケーションの相手のみが「ホントウの存在者」であるかのように、コミュニケーションの非当事者の存在を、よほどのことがない限り意識しない。誰かに肩や鞄をぶつけたとしても、何もなかったかのように歩き続けることさえある。
 もちろん、「では一人で、黙々と歩いている者についてはどうか」という問いはありうる。すなわち、コミュニケーションの相手が存在しないと思われる場合である。たしかに、一見すると彼または彼女は目に見えるコミュニケーションをしていない。しかし、たとえばこれから友人と会食だとか、病床の知人のお見舞いだとか、近い未来のコミュニケーションを前提して歩いているのだ。それ以前の服装選びや、会って何を話すか、場合によってはいつ帰るかを想定して、またはしつつ歩いている。まあ、なかには本当に誰とも会う予定もなく、かといって目的地も決めず、よって服装も着の身着のままで、むやみやたらと歩き回って、そこらへんの花とか鳥とかを偶然見つけて喜ぶ俺みたいな奴もいるだろうが、これは例外的だろう(これは、後述のように、意図せずとも、恋愛というミニゲームにおいて「キモい」とされかねない致命的な挙動だろう)。
 さて、それぞれの人間は、先ほど切り取った瞬間の種類のコミュニケーションに固定されているわけではない。相手や場といった様々な要素に応じて、「適切」とされる種類のコミュニケーションに参与しているのだ。たとえば、職場に向かうためにはアロハシャツは許されないだろうし、職場で上司に対し、カフェの行列で友だちに言うような「この前◯◯いう映画みたんやけどさぁ、お前もみた?」という声かけも許されないだろう。この適切さを決めるもの、それがミニゲームのルールである。実際、なぜアロハシャツではいけないのか、なぜ敬語で話さなければならないのか、なぜ映画という話題を選んではならないのか、という問いはありうるが、社会人というミニゲームではそれがルールだからというのが答えだろう。そして、重要なことに、こうした「ルール」は、問いや違反があって初めて対象化されることが少なくない。
 「社会のアソビ大全」内のミニゲームとは、可能なコミュニケーションのうち、特定のものを適切とし、その他を不適切とする独自のルールをもちながら、ルール自体が実践、つまりプレイとしてのコミュニケーションがなされることによって存在し、その下で連鎖するコミュニケーションの総体といえる。たとえば、「しりとり」などは、これにあてはまる。もちろん、ミニゲームのルールは、しりとりほどわかりやすいものだけではなく、シニフィエシニフィアンとの関係の規定などもそれに含まれうる。しかし、ここで注意しなければならないことは、プレイヤーは、自らが参加するミニゲームを必ずしも主体的に選択したというわけではなく、さらに、そのルールについて予めの了解をしているわけでもないという点だ(「りんご」という文字が、なぜあの果実を意味するのか、「めてぬ」でもよかったのではないか、などは前景化されない)。先ほど述べたように、ミニゲームのプレイヤーは、そのミニゲームのルールを相対化・対象化する機会が当然にあるわけではない。さらに、ヨコの独立性とタテの独立性のところで説明したように、プレイヤーは唯ひとつのミニゲームだけでなく、同時に複数のミニゲームに参加しうるが、こうした複数的な参加自体やミニゲーム間の照射的関係も明確に意識されるわけでも必ずしもない。コミュニケーションをする者はすべて、何らかのミニゲームに縛られている。
 以下では、決して網羅的ではないが、大多数が参加していると考えることができる代表的なミニゲームを紹介し、それぞれの関係性についても若干補足することにする。
(2)ミニゲーム「経済」
 ミニゲーム「経済」では、貨幣を媒体とするコミュニケーションがなされる。ここでいう「媒体」は、必ずしも物理的な交換の要素の一部になる必要はなく、各プレイヤーの行為が、その貨幣の存在を前提として意味をもちうる、ぐらいの意味と解してほしい。貨幣の使用や獲得といった効果を期待してなされる、と他のプレイヤーからみて解釈されうる行為が、ミニゲーム「経済」でのプレイングとしてカウントされる。
 たとえば、あなたが人に善意で親切にしたとしよう。相手が「ありがとう!」と言って500円玉を渡してきたとき、ミニゲーム「経済」のプレイをしていたことになる。「いや、お金が欲しくてやったわけじゃ……」というのがあなたの本音であり、善意の交換を核とするミニゲーム「道徳」をプレイしていたつもりであったとしても、それがミニゲーム「経済」でのプレイングとして機能してしまうことがあるのだ。ミニゲームからミニゲームへの移行というか、まさにこれがヨコの独立性の欠如なのだが、このことがタテの独立性の欠如の要因の一つにもなりうる。あなたは、その後似たような「親切」をしたときや、同じ相手に異なる親切をしたとき、「200円しか払わない!?相場を考えろ」だとか、あるいは、ミニゲーム「道徳」のプレイヤーから「ありがとうね!」と微笑まれても「0円ねぇ、ケチなババアだぜ」なんて考えるようになるかもしれない。社会心理学の分野でいえば、保育所のお迎えに遅れた場合の罰金制度の導入のお話がこれに関係するだろう。ちなみに、結論だけいうと遅刻者は増えた。
 このように、単体の行為者の想定によらず、相互に行為しあうプレイヤー間のコミュニケーションの種類がどのミニゲームにおけるプレイングであるかを決定する。そして、ミニゲーム「経済」は、コミュニケーションの規模が極めて大きく、そのコミュニケーションから断絶された状態では生きていくことが困難である。テレビの無人島生活のように狩猟・採集で生きていくなら話は別だが、現代の資本主義社会において、このミニゲームをすることはもはやデフォルトだ。
 なお、このミニゲームでの成功は、(資産などの潜在的なものを含めた)所有する貨幣の量によって測定されるが、貨幣を使用することで他のミニゲームの多くにおいて、いわゆる「課金」が可能であることに注意してもらいたい。これは、ミニゲーム「経済」のデフォルト性から、他のミニゲームのプレイヤー(の多く)もまた貨幣を欲することから説明できよう。福沢諭吉を、今なら渋沢栄一を何枚か差し出すだけでミニゲーム「経済」がたち現れるのだから。「社会のアソビ大全」の「本編」化しているともいえる。他のミニゲームに先だって説明したのは、ミニゲーム「経済」が、他のミニゲームそれぞれにいかなる影響を及ぼすかを考えるために必要なためだ。
 ところで、ミニゲーム「経済」の性質上、貨幣というメディアの存在を前提するにしても(物々交換の社会は成立しうるが)、他のルールは偶有的であるということに注意しなければならない。たとえば、貨幣が今のようにメダルと紙切れでなくとも、石ころであろうが塩であろうが、何だって構わないわけである。コンヴェンションが現在の貨幣の外延として円やらドルやらの紙切れ等を含ませているにすぎない。さらに、いわゆる「能力主義批判」の一環としても機能しうるが、ミニゲーム「経済」内で、たとえば特定の能力や資産A1の発揮の換金率と、他のそれらA2の発揮の換金率とが異なることがあるが、それもまた偶有的なものだ(換金に「努力」が必要であることは、換金のための「努力」の量の差異を無視する理由にはならないし(というかそれを含めて「換金率」だろう)、その差異が専ら偶有的なものから起因するのであれば、少なくとも生きていけるだけの「取り分」の再分配は是正的正義の観点から正当化できるように思われる)。
 要するに、コンヴェンションがルールを具体化し、そのルールに我々は知らず知らずのうちに適合的にふるまっている。これは必ずしもミニゲーム「経済」だけの話ではないが、とくに意識が必要と思われるため再確認しておく。他のミニゲームをプレイしているときも、このミニゲーム「経済」のルールを知らず知らずのうちにひきずっているのだ。自らが背負っていると知らない荷物を、降ろすことだけを意識して行うことはできない。
(3)ミニゲーム「性愛」
 ミニゲーム「性愛」では、個々のプレイヤーは何らかの性別に対応したかたちで観念される。現在は、男または女という性別の二元論的な割り振りがなされている。自身の性「らしい」をふるまいをすることで、より異性「らしい」プレイヤーと「交際」であったり「結婚」であったりをすることがこのミニゲームの目標だ。「愛を媒体とするコミュニケーション」というように言ってしまってもよいが、「愛」という言葉は性愛だけではなく、恋愛やその他家族愛などの親密性と結びつくこともあるから、それらと区別されていると観念されているこのミニゲームにおいては多少ズレがあることに注意してもらいたい。異性愛主義と男女二元論とがむすびついているのが現在のミニゲーム「性愛」の環境だ。この環境自体が偶有的であることはここで指摘しておくが、以下では、現環境を一定程度前提して話を進める。
 異性からの性愛を獲得することを目指しているということ、一定の性愛を獲得しているということ等から解釈されうるような行為が、ミニゲーム「性愛」のプレイングとしてカウントされる。アセクシャルな者なども一定数存在するということが認識されつつあるにもかかわらず、「異性の交際相手(彼氏/彼女)はいるの?」等の質問によって達成度がはかられることが多々あるが、これはこのミニゲームの参加人口が多いか、多いという擬制がはたらいているからこそ発されるものだ。
 現在の環境では、「男らしさ」の程度の両端は「かっこいい/かっこよくない」で、「女らしさ」のそれは「かわいい/かわいくない」だ。「女らしさ」には「美しい/美しくない」を置いてもかまわないが、これは「女らしさ」のなかでも容姿のみに関するコードであるように思われ、所作等がプレイングとして含まれるこのミニゲームでは「かわいい/かわいくない」がその上位概念として適切だと思われる。
 これらの各コードについても、外延として含まれる要素は偶有的に定まっているにすぎない。「足が早いとかっこいい」というのは、もしかすると進化論的合理性があるかもしれないが、たとえば吉本隆明を読んでいたり、ゲバ棒を持って連合赤軍でベラベラ喋ったり、英語を話したりするのがかっこいい、というのは(一昔前の話だが)、少なくとも一過性のものだといえよう。
 こうした偶有性の現れとして、「かっこいい/かっこよくない」及び「かわいい/かわいくない」の各コードにおいて劣位におかれるものの表現の変遷を捉えることもできる。たとえば、最近話題になった、あるツイートでの「キモい」は、ある男性が「かっこよくない」ことと同義のものとして扱われていたように解されるし、「かわいくない」の同義語としては「生意気」だとか「小賢しい」だとかが当てはまるだろう。むしろ、こうした「かっこいい」や「かわいい」に対する二重の否定が「かっこいい」と「かわいい」を成り立たせているのかもしれない。
 さて、このミニゲーム「性愛」の、男/女からはじまるあらゆるコードの束は、実践を通じて強化・再生産されるわけであるが、以上でみたように、それは恒常的に同一の内容をもつということを意味しない。女は「かわいい」と思われるための挙動を、男は「かっこいい」と思われるための挙動をするということが保たれている限り、それぞれの目標達成に影響する変数それ自体は変化しつつも、このミニゲームは存続しうる。
 男/女という性別間の差異と、同性間でのその性「らしさ」の程度における差異のいずれをも保ち続けなければ、ミニゲーム「性愛」における勝者になりえない。「男は女と違ってこうだ、さらにその男のなかでもボ、俺は……」だとか、「女は男と違ってこうよ、そのなかでもアタシは……」だとかを、(言葉にするかどうか、意識するかどうかはさておき)このミニゲームをプレイする限り示し続けることとなる。男は女から「男らしい(かっこいい)」とされることに、女は男から「女らしい(かわいい)」とされることを目指すのだから。
 なお、このミニゲーム「性愛」は、ミニゲーム「経済」と興味深い関係にある。「男らしさ」のなかに「稼得能力」の要素が、「女らしさ」のなかに「癒し」や「支え」の要素が入り込むことで、男性はミニゲーム「経済」での成功を促される一方、女性はミニゲーム「性愛」における成功とミニゲーム「経済」における成功とが緊張関係に立つ場合が存在することとなるのだ(たとえば、ほとんどの場合主体が女性の「寿退社」という文化や、それを前提とした雇用に関する決定)。まあ、現在はこの事態から生じる帰結につき賛否両論あるが。
 また、ミニゲーム「経済」のなかの職業という領域にミニゲーム「性愛」が影響することがある。まず思いつくのが、セックスワーカーや容姿以外特筆すべき点のないタレントや役者だろう。ただし、そこにはコミュニケーションの種類の一致はない。一方はミニゲーム「経済」のプレイングを意図しているのに対し、「客」サイドがミニゲーム「性愛」のプレイングとして捉える場合のことをここでは想定している。悲しい。お金出しちゃった時点でそれはミニゲーム「経済」の支配を強く示す。ミニゲーム「性愛」下のコミュニケーションは、もはやミニゲーム「経済」下のコミュニケーションに変質する。      
 こうしたケースではなく、ミニゲーム「性愛」におけるプレイングにおいて、何らかの「欠点」があるとき、「課金」によってそれを補う、という関係のあり方を考えよう。美容整形や美容食品・化粧品販売などは、常にそのときどきの「かっこいい」や「かわいい」を実現する手段を提供するという点で、偶有的だが普遍的な職業だ。いや、むしろ、ミニゲーム「性愛」におけるコードの偶有性とそれによる実質内容の変化があるからこそ、普遍的な職業たりえているのだ。誰もが同等に成功できないからこそミニゲーム「性愛」は続くが、ミニゲーム「性愛」が続く限り、成功のための条件に外見の要素が含まれ、かつそれが変化しつづける限り、ニーズがなくならないからだ。ファッション誌が「かわいい」を決めるのではなく、ファッション誌はミニゲーム下での関数の変化を敏感に捉えているにすぎない。予言者ではなく預言者なのだ。
(4)ミニゲーム「権力」
 一瞬、ミニゲーム「政治」とすべきかと思ったが、別に実存を左右するわけではない場面にもこのミニゲーム下でのコミュニケーションは存在するから、緩やかに解してもらいやすいよう、「権力」とした。政治学なんかでは、「権力」の概念を、主体Aと主体Bについて、放っておいたら主体Bがやりそうにないことを、主体Aのはたらきかけでやったとき、主体Aに権力がある、なんていう説明がされる。たとえば、親から宿題をやりなさいと言われて机に向かう子どもは、親の権力によってそうさせられているのだ。ミニゲーム「権力」は、こうした権力を獲得し、行使することを目的とするコミュニケーションと解されるとき、プレイヤーが存在するといってよいだろう。
 ここでの媒体は、いわば「ハラスメント」だ。言い換えれば、このミニゲームにおけるコミュニケーションは、「お前を自分と対等な存在とは思わない」というメタメッセージの交換というかたちで把握できる。自身のメタメッセージに対する異議申立てのための当事者適格を他者には認めないことが勝利条件だ。言い換えれば、目下のコミュニケーションを打ち切る決定をする者に権力が宿る。この点で、コミュニケーションをしないためのコミュニケーションという、アイロニカルなミニゲームといえるだろう。
 このミニゲームでは、たとえば先ほどの「宿題をやりなさい」の例だと、子がすんなり言うことを聞けば親の勝利だが、子が「もうちょっとポケモンしてから」とかなんとか言ったときに、「いいから今すぐやりなさい!!!」とキレ散らかすことで、子の挙げた理由を一切考慮することもなく、自身の結論を強制することが求められる。ここには、「ポケモンと宿題との優先順位」という議題についての対話の余地が本来存在するが、対話をしないことによって、「お前を自分と対等な存在とは思わない」と伝えているのだ。
 上の例は、ある程度有利/不利が存在する場面のことだが、権力の相対的有利/不利を出現させるためには、様々なやり方がある。上の例は、背景には腕力や経済力の差がハードパワーとして存在することによる現象だが、そんなものがなくても権力は獲得しうる。要するに、「泣く子と地頭には勝てん」というように、相手の話を聞かず、要求内容を喚き散らかすだけで十分なのだ。面倒くさい奴になること、これがこのミニゲーム「権力」のミソだ。見ざる聞かざるオコリザル、「舐められたらオワリ」、これがミニゲーム「権力」。
 しかし、ここで疑問に思われた読者もいらっしゃるだろう。「ハードパワーがあるときはともかく、それを欠くときは無視するか、堂々と相手の要求に反する行為をすればよくないか?」と。その通り。そうすることで、「お前を自分と対等な存在とは思わない」をお返ししていることになる。「お前が何を言おうが、俺はまともにお前の話なんか聞かへんわ。勝手にしやがれ」だ。それでこそミニゲーム「権力」のプレイヤーといえる。これに対してはさらに、無視されたのちに、「俺、この前こうしろって言うたやんな?なんでやってへんの?何回言うたらわかるんかなぁ、ハァァァ~~ッ!!!(クソデカため息)」という質問で再アタックがなされるかもしれないが、これに真面目に応答してしまうといけない。たとえば、「素人のASMRかよ」とかなんとか言いながらクスクス笑ってその後無視が正解。最後にレスをしたほうが勝ち、という2ちゃんねると同様に、最後にハラスメントをしたほうが勝ちなのだ。
 ……実に愚かしいミニゲームだが、このミニゲームの競技人口は少なくない。ミニゲーム「権力」は、一度有利/不利があるプレイヤー間で成立してしまうと、その後の逆転はなかなか難しい。一度ある相手に対して折れると、その後も折れ続けることになりがちだ。たとえば、「敬語」なんかを使ってしまうと、きっかけがない限り「タメ語」に移行しにくい。いきなり「タメ語」に移行すると、「は?お前誰に口聞いとん?もういっぺんだけチャンスやるから俺にちゃんと話しかけてみ?」ということになりかねないからだ。敬語を使うことで、上下関係は再確認され、強化されるのだ。なんで一年先に入学しただけの人間に敬語なんぞ使わなきゃならんのだ、と中学のときに思っただろう。そうした慣習の共同体のニューカマーだったから。それが社会人になると当たり前に思うのだから、慣習というのは恐ろしいものだ。
 また、特定のトピックについて「何を今さら言うとんねん」だとか、「お前の意見は聞いてへん、黙っとけ」だとかを一度通してしまうと、そのトピックに関する話が続く限り、話をできないなんてこともあるだろう。さらに、このような発話がなされなくとも、知識の多寡(「バカなんだから黙っとけ」)や「空気」(「シラけるわぁ、しゃべんな」)によって異議申立てが困難になるときもある。なお、そもそもトピックの選択についても、「このトピックを選ぶ」というのは「別のトピックを選ばせない」ということでもあり、そこからミニゲーム「権力」でのプレイングが始まっていることにも注意しなければならない。
 つまり、権力の源泉も、必ずしもハードパワーに限られないのだが、むしろハードパワーが源泉にならない場合もあることに注意しなければ、ミニゲーム「権力」の把握でミスを犯すことになるだろう。何が「権力」に変換されうる素材なのか、文脈に応じて読み取ることが必要なのだ。これもまた、権力という箱に何が入るのか、換算率はいかなる関数によって決定されるのか、という観点から観察される。
5.補論というか余談──ミニゲームの内面化──
 以上が「社会のアソビ大全」の視座からの社会の観察だが、それぞれのミニゲームのプレイについて、「あぁ、こういう人いるわァ~」や、「あるある」と思ってくださることもあっただろう。そして私自身、これらのミニゲームに参加する者でもあるから、「あるある」適合的なふるまいをしてしまっていることだろう。美人(これが専ら女性を指すのも不思議な話だ)が歩いていればジロジロみたくなるし、日本銀行券という紙切れはもちろん欲しい(が働きたくはない)。
 注意していただきたいのは、通常、我々はこうした多様なミニゲーム間の区別を意識せずに、それでいてそれなりにそのときプレイするミニゲームのルールに適合的にプレイしているということだ。プレイヤーそれぞれの存在論的同一性に基づき、コミュニケーションの種類、ひいては参加するミニゲームが変わったとしても、ミニゲーム間での移行は意識されない。それによって、「社会のアソビ大全」というゲーム全体のプレイ履歴として個人史が把握されることとなる。「社会じゃそんなことは通用しない」というミニゲーム「権力」的発話は、自身がプレイしてきた諸々のミニゲームのルールに違反する、という程度の話なのだ。「社会のアソビ大全」のすべてのミニゲームをしたとも限らず、それぞれがミニゲームであるということも理解されないままに、大文字の「社会」が語られる。
 さらに、自身の参加する諸々のミニゲームには、他者も「当然に」参加しているとみなす向きもある。ミニゲーム「性愛」のところでも述べたが、必ずしもそれに参加するとは限らないものであってもだ。ここに、コミュニケーションを基点として分類されるべきミニゲームの種類を、存在者の性質として捉える視点が内在している。すなわち、「社会のアソビ大全(に収録されたいくつかのミニゲームの)のプレイヤーである」ということから、「特定のミニゲーム(たとえばミニゲーム「性愛」)のプレイヤーである」ということを推測しているのだ(競技人口の割合から必ずしも帰納的に「弱い」とも言い切れないが)。こうした誤解によって、他者の行為はすべて、自身のやってきたミニゲームの観点から評価され(そもそもミニゲームが異なるとき、ルールが異なるから、よってしばしば違反とされ)ることとなる。本記事を書く俺がいうことでもないが、ゲーム脳ここに極まれりだ。自分がたまたまやってきたミニゲームのルールを、もはや他者も受け入れて実践するべきだということを主張しているのだから。本記事ももう終わりだが、これをミニゲームの内面化と呼ぶことにする。
 ミニゲームの内面化には、さらなる帰結があり、本人がずっとプレイしてきた結果として、その人のとりうるコミュニケーションの種類が、内面化されたミニゲームに規定されてしまいかねない。ミニゲーム「権力」を内面化した者はクレーマーになるし、ミニゲーム「性愛」を内面化した者はモテるとかモテないとかの話をずっとしている。
 ミニゲームの内面化を避けるべきとすれば、まず、自分がやってきたのはゲーム、しかもそのなかのいくらかのミニゲームにすぎないという認識が必要だ。そのうえで、それらは偶有性をもつものだという点で、他のミニゲームと根本的には変わらないということを理解しなければならない。そもそも「社会のアソビ大全」に収録されたのも偶然みたいなもんなんだから。ミニゲーム間の調整規定について考え、主張することは有意義だとは思うが、あるミニゲームの観点からルール違反だからといって直ちに非難できるほどには、それぞれのミニゲームのルールは必然的内容をもつとは限らない。