理系は人文学の夢を見るか?

はじめに

 本記事は、国大さんのnoteの記事「書籍「21世紀の道徳」について!前書きが熱い!!/人文系の存在意義を主張するはずだった文章」(以下、「当該note」という。)へのリアクション記事です。本記事では、当該noteにおいて参照される外部のテクストから独立したものとして当該noteを扱います。証拠的に参照される外部のテクストの真偽については真として扱い、かつその定位も適切なものとして扱いますし、本記事で言及する際には、当該noteの論旨との関係において諸々のテクストがいかなる役割を持ち得るかという観点からのみであることに注意していただきたいです。それに伴い、外部のテクストからの引用箇所も、当該noteからの引用と同等に扱います(以下、「」内は断りのない限り全て当該noteまたは当該noteの引用箇所からの引用)。というかいちいち書くのが面倒なだけなんですが。そういうところだぞ、と言われれば困っちゃう。

 本論に入る前に、まず、当該noteそれ自体の意義を確認しておく必要があるでしょう。当該noteは、ネットでしばしばナンチャッテ論争を招く、いわゆる対立煽りとは一線を画するものです。いかなる点で当該noteは対立煽りとは異なるのか。それは、二項対立の構図を採用して、二項間の差異を、差異が存在すること以外の理由なくして(少なくともある差異がなぜ二項の間の優劣になるのかという問いに明示的回答を与えることなく)それを優劣に対応させるようなことをしていないという点です。このことは、当該note自体が、「原理的に反論しえない人々より上位にいる」ことを意味し、仮に当該noteの結論に反対する者は、当該noteの論拠を斥け、または結論を否定するためのより強固な論拠を挙げて応じるべきであるということです。

 しかし、本記事はあくまでもリアクションであり、たとえば私自身がそのような応答をすることを目的にはしません。別の機会にします。ただし、当該noteの個々の主張を整理しつつ、反論する側にとっての主要なターゲットを抽出するという操作は行います。本腰を入れた反論をするだけの時間的余裕がなかったのでさわりだけとなることをご了承ください。

 

1.当該記事の主張の整理

 まず、当該noteにとっての批判対象となるのが、概念及び論理操作の曖昧性・多義性です。「(真逆の意味の)2通りに取れる文章なぞ学問ではあり得ない」との前提に立ち、多義的概念をもてあそぶ哲学者の主張等につき具体例を適示します。これらが、人文系の諸学問における、典型性のある事例であるとするならば、人文系の諸学問は、(少なくとも当該noteのいうところの)学問ではあり得ないような操作を行っており、学問として不適格であることが示唆されたといってよいでしょう。さらに、当該noteのいうところの「学問」につき、「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」である学問としては、「正誤の基準」を曖昧にし、「悩み続ける」ようなものは不適格であることも主張します。

 以上を合わせて、正誤の基準が曖昧であるうえに(基準の曖昧性)、その基準の下でなす操作も不適切または欺瞞的(操作の不適切性)であり、したがって学問として不適格との主張であると理解できます。

 当該noteの次なる批判対象は、人文系学問の学習の効果についてです。当該noteは、『21世紀の道徳』の記述にしたがい、「人文系は直接は役に立たない」との立場をとり、その後、人文系の間接的効果について疑義を呈します。すなわち、「民主主義を健全に機能させるために」必要な批判的思考能力と想像力は、人文系学問の学習によって習得されることは少なくとも実証されてはおらず、したがって確からしくない旨を主張します。こうした主張を間接的効果の未実証と呼びましょう。

 要するに、人文系学問は、基準の曖昧性、操作の不適切性より学問としての適格性が否定され、かつ間接的効果の未実証によってその学習による効果も確証されないがゆえに、直接に役に立つ理系分野に比して人文系学問の存在意義は疑わしいといえる、ということですね。

 

2.反論する側にとっての主要なターゲット

(1)個々の論拠

 以下、AからCにおいて個々の論拠につき、想定可能かつ一定以上の実行可能性がある反論を概観する。

A.基準の曖昧性について

 基準の曖昧性については、反論する側とすれば、正誤の基準を明示できれば話は早そうです。しかし、実際には、正誤の基準の明示は、いわば学問に対するメタ次元にあるものであり、よってその明示は困難であると思われます。

 ところが、なんと哲学の真理論には、真理に関する判断基準についての議論があります。もちろん、真理論内部でも「悩み続ける」側面がないではないわけで、対応説だの整合説だのプラグマティズムだのと、いわば群雄割拠なわけですが、それぞれの立場からすると、一意的に正誤(真偽)の基準は提供できるわけですね。

 とくに、タルスキの対応説的真理論においては、メタ言語による意味論的置換が可能な文に関して、対象言語相対的な真理値帰属が可能で、他の学問分野における正誤の基準と一致する必要がないような真理概念が想定可能です。たしかに、このような真理論は、タルスキ自身によって自然言語への適用が否定されてはいるものの、各学問領域におけるメタ言語による意味論的置換がなされうる限りは、適用可能と考えられるわけです。

 さて、これは一見すると、真理論が分裂しているという状況が存在する限り、正誤の基準の曖昧性という批判を解消し得ないように思われます。真理論内部の対立についてはメタ真理論が必要かもしれません。しかし、少なくとも「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」を各理論が提供していること、各理論内部においては「正誤の基準」が一意的に想定しうること、それがそれぞれの学問分野に適用可能なことはいえます。

 したがって、人文学内部でも、いずれかの真理論に応じた何らかの真理値帰属の基準が存在することを言えればよいわけですね。

B.操作の不適切性

 操作の不適切性については、当該noteがその具体例として挙げているものの証拠力を争うことが可能です。つまり、具体例の学問領域における典型性、または当該note中でも示唆されているように、具体例における操作の不適切性の存在について否定できれば、操作の不適切性は人文学一般の特徴にはあたらないといえるでしょう。

C.間接的効果の未実証

 間接的効果の未実証については、まず想定できるのは、当該noteの言う通り、「文系の想像力が高いことを実験で証明」することによる応答です。「実験」という実証手続に訴えることで可能となりうる反論ですが、その他の歴史上の展開と、それに人文系の学問が及ぼしたといえる効果として、たとえば「民主主義が健全に機能」しうるということを示すことも論証と合わせて行うことも想定できます。

 また、ここで存否の争われる間接的効果の内容として、ここでは想像力と批判的思考が学習者の身につくことが想定されていますが、その他の間接的効果により社会的有用性の存在を示すことも、それこそ間接的な反論たりうるでしょう。たとえば、概念工学などの意識的な取り組みの必要が唱えられているように、人文系の学問における概念が、社会の現状認識や改善策として「TCT創造性検査」における「実物の下敷き」的役割を果たす可能性も否定できません。

 なお、「TCT創造性検査」によって当該noteが主張しているのは、物体の用途に関する「想像力」であって、これは文系と理系との間の「想像力」の比較ではないし、また、その「想像力」と、民主主義の機能のための条件としての「想像力」と同視すべきとはいえない(同視してはならない、とまでは言っていません。少なくとも同視すべき根拠は示されておらず、実際当該noteでも直接的な証拠として扱っているわけではありません)ものであり、後者の意味での「想像力」を測定するための「測定手法を考えるだけ」のことはなされていないことに注意しなければなりません。

 ここでわざわざ注意を喚起したのは、Cの証拠付けが不十分だ、と主張するためではありません。Cはあくまでも、人文系の学習が、民主主義の十全たる機能の前提条件となる「想像力」と「批判的思考」を身に着けさせるという実証がない、という消極的な主張であり、真偽不明な状態にあるという程度の意味です。そしてこのことは、次の(2)B.真偽不明の処理方法において重要な確認といえます。

(2)全体の論旨への想定可能な反論

A.学問としての不適格性と社会的有用性

 当該noteは、基準の曖昧性と操作の不適切性により人文系の学問としての適格性を否定していますが、仮に学問ではなかったとしても、社会的有用性は肯定しえます。当該noteが人文系の「存在意義」や「役に立つ」か否かを問う以上、必ずしも学問といえるかどうかは重要ではありません(学問であることそのものに価値を見出すことも可能ですが)。言い換えれば、人文系の学問が基準の曖昧性をもち、さらに操作が不適切だったとして、それが学問としての適格性を否定することはあっても、社会的有用性は必ずしも否定されないということです。まさに当該noteで学問としての不適格なものの象徴として扱われる(一応学問領域とは区別された小説などの)「文学」作品は、読者が楽しく過ごすための有意義な体験を提供したり、あるいは経済活動の一環としてなされたりすることで、何らかの意味で社会の役に立っているといえるでしょう。

 ......まあ、こんな立論をするのは僕だけかもしれませんし、その他の具体例を出すのはなんとなく反発を招きそうなのでやめておきます。

B.真偽不明の処理方法

(a)総論

 理論間・命題間の優劣という意味での真偽不明の状態が生じたとき、我々はいかなる処理が可能だろうか。考えられるのは次の二つの方法です。第一に、真偽不明は真偽不明のまま、「悩み続ける」こと。第二に、一方を決断または規約によって選択し、それを真と仮定して実践を行うこと。

 さて、ここで「正誤の基準」問題とも関連しますが、論争が存在すること、理論間で決着がつかないことは、直ちに第一の方法を採用していることを意味しません。もちろん、本来真偽不明の事態でないのにもかかわらず、あたかも真偽不明であるかのようにふるまう者は、「知的誠実さ」に欠けるとして非難されてよいですが、目下検討する事態とは異なることに注意してください。

 (1)Aで、理論間の対立の存在と、各理論内部での「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」が提供されるということは述べました。ここでは、ある理論を選択すれば、その理論内部での正誤は判断できるわけですが、その選択は、理論間の優劣の考慮によっては必ずしも結論されないものである事態を想定します。

 このとき、第二の方法がとられているからこそ、理論間の対立が存在するわけです。「悩み続ける」者は、他の「悩み続ける」者と対立し得ません。何を真と考えるか定かでない者は他者に主張するところの真なる言明にあたるものを持たないからです。理論間の対立を、真偽不明と同視することは、各理論内部での結論の存在を見落とさせるおそれがありますが、「哲学上の未解決問題」もまた、必ずしも「正解を出」さない理論間の対立とはいえません。

 実際、反証可能性によって特徴づけられる科学分野について、反証可能性という概念自体が、存在者としての真理ではなく、認識論的な真理観を前提しないと理解不可能なものでしょう。ある時点で有力とされる理論は、他の理論との対立をいわば運命づけられており、そのような対立が存在し得るにもかかわらず、我々はそのときどきに有力な理論を暫定的に受容しているわけです。このように、ある理論の内部的にしか通用しないであろう結論を我々は「正解」として扱っているのです。

 このとき、真理としての「正解」は多元的に存在しうることになってしまいますが、このことは、学問は認識の手続であって、存在としての真理が唯一であるかもしれない一方で、認識としての真理は学問や理論に相対的に与えられるということの帰結といえます。さらに、そのような意味で相対的な真理を選択することを、我々は通常行っています。神はサイコロを振らなくても我々はサイコロを振っているのです。

 以上で何が言いたいのかというと、認識論的真理は、存在論的真理からは独立して存在しているということです。学問における真理は認識的なそれであり、たしかに学問において明確に否定された命題が存在論的真理である可能性は低いと考えざるを得ないでしょう。しかし、証明がなされていない命題については、存在論的真理と一致する可能性はありうるし、少なくとも学問的には、その命題が反証可能性をもつ場合、偽とするためには、反証が必要であるということです。

(b)各論

 当該noteは、『①文系と理系との比較において、直接的効果については理系には存在し、文系には存在しない。また、②間接的効果については両者に差異があるという実証がなされておらず、優劣については真偽不明。③よって直接的効果の分、理系が優越する。また、④文系の存在意義はない[次の加筆部分を要参照]。』(省三によるパラフレーズ)と述べており、あくまでも比較の観点から、劣位であることを「存在意義」の不存在と言い換えているとも考えられます(③⇔④)。この換言において前者と後者とが等価であるとされるならば説明が必要と思われるが、いずれにせよ問題点があることは指摘しておきます。

 ★[ご本人から幸いにもご指摘いただいた点について、訂正と弁明!

 まず、当該noteは文系の「存在意義」につき、all or nothingの観点からの言及をしているとは必ずしもいえません。にもかかわらず、上記④は、この観点からの主張として当該noteの趣旨を定位していると読むべき文であり、ゆえにパラフレーズとして不適切でした。大変失礼いたしました。

 さて、なぜ④のような文を書いたのか。この加筆部分の以下では、これについて説明しようと思います。

 当該noteの間接的効果の未実証の文脈においてなされるのは『人文系学問の意義は想像力等の増進だ』(以下、「当該命題」という。これは引用ではない)という『21世紀の道徳』における主張への批判です。その批判の方法は次のようになされます。主要なものとして、それを裏付ける実証がなされていないことの指摘がありますが、次に、「TCT創造性検査」による、「疎外感と創造性の相関さえ間違え」、かつ当該命題を尚『なんとなく』支持するような仮想敵に対し、そのような者であっても「人文系と創造性の相関がプラスだと確信でき」ないだろうとの(間接的でありまた予備的な)応答をしています。

 仮想敵への応答は、その性質上属人論法チックではありますが、いずれにせよ、以上の方法によって結論できるのは、当該命題は少なくとも現時点では実証的基礎を有さないということですね。実験によって示せと当該noteも述べていることと整合的です。

 このことは──できるだけ他の部分との重複を避けるべきとは思いながら言いますが──当該命題が、その否定命題との関係において、劣後する論拠しか有さないことを直ちには意味しません。それゆえ、結局は、個別の学問領域の者も巻き込んで、出てくる確証と反証を待つしかないわけですが、ここで当該命題の否定命題が真である、とも必ずしもいえないことに注意する必要があるわけですね((2)B真偽不明の処理方法参照)。

 したがって、当該noteのこの時点では、当該命題を巡る真偽不明の状態にあるといえるでしょう。『21世紀の道徳』の示す文系の「存在意義」の論拠を検討すると、必ずしもそれは成立しているわけではないのではないか?という健全な懐疑ですが、前述したように、ある命題の論拠の不在は必ずしもその命題の否定命題を正当化しませんから、いわば『フリダシにもどる』的な真偽不明なわけですね。

 さて、これは非常に興味深い事態です。というのも、『21世紀の道徳』を読む以前の「文系と理系に同程度の存在意義がある」(これは、『文系には存在意義がある』、『理系には存在意義がある』、『文系と理系の存在意義は同等のものである』の複合命題です)という信念は、主観的には真偽不明にあり、そこにおけるある種の決断または規約によるものなわけです。他方で、当該noteにおいて、『21世紀の道徳』の挙げる文系の存在意義についての議論につき検討を加え、結果としてその議論の論拠の不足により、その信念の対象たる命題につき、真偽不明の状態であることが一定程度確信された、と。

 しかしながら、読書のbefore/afterでの差異が生じています。これをどう説明するのか。それは、真偽不明の処理において採用される方法の差異に端を発すると思われます。読後に採用された方法として想定できるのは、次の二つでしょう。一つは、読前は真偽不明の際には、「同程度」とする規約ないし決断を採用していたのに対し、読後は真偽不明の処理方法のひとつである「悩み続ける」ことを選択し、その意味で「文系の存在意義を疑うようになった」というもの。もう一つは、読前は一つ目と同じだとして、読後には規約または決断の結果として、「文系と理系には同程度の存在意義は」ないという意味で「文系の存在意義を疑うようになった」というもの。

 本記事を初め書き上げた時点で、このうちのいずれであるのかを僕は確定できず、結果として混同してしまいました。失礼しました。

 以下は追加的なコメントとなります。ついでだから書いとけ的な。

 ※なお、厄介なのが、文理の比較の観点から、文系の間接的効果を評価しなければならないということですね。単に文系(理系)にも意義がある、というだけではなく、その意義が文理の優劣にどう影響するのか、という点も考慮しなければならないことになります。意義の内容が明らかにならないとできない議論なので、現時点の僕にはできなかったし今もできないわけですが。

 さらに、果たして比較が必要なのか?という点もあるわけです。なぜならば、仮に理系が文系に優越するにしても、文系の「存在意義」は肯定されうるからです。「存在意義」につき、一定の観点からの査定がなされる場合、ある閾値さえ満たせば肯定されるとき、必ずしも比較で劣ったからといって、その閾値を満たしてさえいれば十分なわけです。

 当該noteでは、社会の役に立つかという観点から議論が進められていますから、よって、その尺度において、一定以上を文系が得点すればよいのであって、比較は必ずしも要請されないでしょう。閾値がまさに理系のものと一致する場合には、理系との比較が極めて重要な意義をもつわけですが。


長文追記以上。]

 ①から④までのそれぞれの真偽を問うことも可能ですが、ここではとくに②が問題となります。②は、実証の不存在から『真偽不明』としていますが、これは『文理の優劣関係は分からない』という意味であって、必ずしも『差異がない』ということを意味しません。当該noteは、同程度であるとの推定につき自覚的ですが、その推定のための十分な根拠があるとはいえないでしょう(これは(1)Cの論点と重複します)。そもそも『真偽不明』であるか否かについても争いはありうるでしょう(「『真偽不明』ではないのにそのようにふるまっているのではないか?という)が、仮に『真偽不明』であるとしても、優劣関係を不等号、同等であることを等号で表すならば、文=理、文>理、文<理の三つの可能性があるわけです。このとき、文=理を主張する者は、文>理でもなければ、理>文でもないということを主張しています。たとえば、三つの定数x,y,zが、x>y、z>yを満たすとき、xとzとの大小関係は分からないのであって、x=zとするのは端的に誤りなように、文理の大小関係についての論争の存在は同等扱いを漁夫の利的に正当化することはありません。

 よって、このとき、(a)総論で述べたように、規約または決断による選択によって文=理を導いているわけですが、[加筆:こうした選択の論拠もまた反論のターゲットになりえ、同等のものとして扱う論拠として、]『同じ人間である以上、能力に差異が生じると考えるほうがどうかしている』だとか応答もできるでしょう。しかし、そうだとすると、学習対象を問わず、また、その他あらゆる情報不足の状態において、何らかの優劣を問う際には、常に同じ程度であると判断することになり、実践的に不適切でしょう。さらに、まさに能力の同等性こそが実証の対象ではないのかという問いも惹起するでしょう。下敷きを与えられれば用途に関する創造性に差異が生じるのに、どうして様々な問題につき、或る学固有の適用可能な概念が存在するとき、それを知識として有する者とそうでない者との間に差異が生じないのか(この前段と後段とが果たしてパラレルか否かは、(1)Cの「TCT創造性実験」の「想像力」と「民主主義」のための「想像力」との区別の必要の存否と同様に検討が必要です)。

 「文系は「箱の外」のことを考えるのが得意だ。だから想像力がある」と「理系は物事を分類し、区分けし、それぞれのパラメータを操作することに長けている。ゆえにありうるすべてのパターンを網羅する能力が高く、箱の中を網羅できる想像力がある」との対比によってなされているのは、「箱の外」と「箱の中」におけるそれぞれの得意なこと(と主張されうるもの)の確認であって、それが優劣(同列含む)にどう影響するのかについては必ずしも明確な回答があるとはいえません。相補性を読み取ることもできますが、優劣をつけるための観点からは、いずれの得意分野についてもその記述が正しいとしても、結局「箱の外」と「箱の中」とでいずれで活躍するのが、より優れているのか、という問題にその決着を先送りしたにすぎません。

 さらに、この対比において、主張が存在する(しうる)ことと、それが手続によって正当化されうること(認識論的真理であること)との区別は必ずしもなされていないように思われます(個人的には理系の得意分野の記述のほうがより説得力があるとは思いましたが。)[以下は加筆ですが、(理系のほうがむしろ「箱の外」もより上手く考えうるという主張の可能性も説得的です。「箱」の内外いずれも「文≦理」ということであれば、いずれについても「文>理」を否定し、自らの結論の論拠を挙げればよいわけですね。反対に文系擁護のためにはそれを肯定するための挙証・反証をすることになりますね)。しかし、いずれにせよそれぞれの論拠につき挙証・反証のラリーによりその確からしさを比較する必要があることに変わりはありません。]

おわりに

 真理論と真偽不明とについては、若干「文系」に肩入れしすぎたかもしれませんが、それでもなお議論のほとんどを留保したつもりです。よって、『想定可能な反論』として挙げたものは、いずれも証拠不足であろうとは思われます。これは専ら僕の力不足によるものです。私自身の反論として提示しなかったのは、あくまでも人文系一般のお話であり、私が個々の領域について明るくないこと、また、前述のようにリアクションであって『反論』や『論争』をする意図がないこと(もちろん、ご批判は私に対するものとして拝受いたしますが)によります。私ができない、個々の学問領域の専門家や学生等による実際的反論の道しるべにもなるよう考えたため、冗長となった箇所や反対に説明不足のところもあるとは思いますが、ご覧くださってありがとうございました。

 国大さんのご努力と、お声かけくださったことに敬意と感謝を表するつもりで、素描ではありますができるだけ強い藁人形の素材を作りました。多少なりとも面白がっていただれば幸いです。末筆にはなりますが、アドカレで面白い記事をありがとうございました!!!

社会のアソビ大全

1.本記事の目的
 タイトルをみて、『世界のアソビ大全51』の通称である『世界のアソビ大全』の誤字であると思われた方もいらっしゃるだろう(以下、当該ゲームソフトのことを『世界のアソビ大全』という)。しかし、本記事は、『世界のアソビ大全』をはじめとするゲームとの対比から、社会を多様なミニゲームから構成される「社会のアソビ大全」とみなすことで、社会における人々の行為やら構造やらを(過度ともいえるほどに)簡易的に記述する可能性を示す試みといえる。したがって、タイトルはこれが適切なのだ。
 余談だが、「ゲーム脳」という言葉が、「現実」を「ゲーム」の延長線上に捉えるような見方が、かつてはしばしば非難のニュアンスを伴って用いられた。しかし、むしろ本記事では、徹底的に「ゲーム脳」となって考察を進める。

2.『世界のアソビ大全』
 本題に入る前に、アナロジーの素材となる、『世界のアソビ大全』の概要を説明しよう。本ソフトは、将棋や花札といった、日本では親しまれたものから、ルドーやバックギャモンと呼ばれる海外の遊戯を元にした様々な(本来電子媒体に依らずにできるという意味での)アナログな遊戯を、ゲームソフトでプレイできるというものである。ここで、プレイ可能な遊戯を「ミニゲーム」と呼ぶことにする。『世界のアソビ大全』というゲームは、ミニゲームの総和、総体であって、少なくともひとつのミニゲームをプレイせずに『世界のアソビ大全』というゲームをプレイすることはできない。言い換えれば、パッケージとしてのみ『世界のアソビ大全』は存在する(仮にそうでないとしても、以下読む場合にはこうした仕様のものとして扱う)。
 さらに、ここで確認しておきたいのはミニゲーム間の互換性・連続性のなさである。たとえば、同じトランプカードという道具を使う大富豪とポーカーとであっても、ミニゲームの規則上可能な挙動や、最適な挙動は異なる。また、(たとえば大富豪で手札を捨てたからといって、それを原因としてポーカーで同じ絵柄の手札を捨てなければならないといったような、)あるミニゲームでの挙動が、同時に行われるか、又は後続する、別のミニゲームの挙動や帰結に影響を及ぼすということはない。互換性のなさをヨコの独立性、連続性のなさをタテの独立性と呼ぼう。『世界のアソビ大全』は、ヨコの独立性とタテの独立性を基本的にはともに満たしている。言い換えれば、異なるミニゲームのルールが衝突しあうことはなく、よってルール間の調整の必要もないし、また、あるミニゲーム下のまさにその挙動が、他のミニゲームのルール下で現れることもない(ある観点から同じ挙動が許容される場合もあろうが、それは同「種」の挙動であって、一回的なある挙動とは区別されねばならない)。

3.「社会のアソビ大全」の視座
 さて、『世界のアソビ大全』の概観は十分した。次は「社会のアソビ大全」である。「社会のアソビ大全」もまた、『世界のアソビ大全』と同様に、パッケージにすぎない。よって、「社会のアソビ大全」のプレイヤーである我々は、それを構成するミニゲームの少なくとも一つのプレイヤーであるはずである。一体、いかなるミニゲームが存在し、我々は、あるいは彼らは、いずれのミニゲームをプレイしているのか。
 しかしそもそも、読者の方のなかには、「社会に、お前のいうミニゲームが存在するということ、また、誰しもが何らかのミニゲームをプレイしているということを、なぜいえるのか」というご意見をお持ちになる方もいらっしゃると思われる。これは健全な懐疑ではあるが、少なくともそれは、論証というプレイが求められる何らかのゲームのルールに基づいて以上の私の文章を評価する者の挙動と思われる。よって反論完了。
 ……しかし、私も少なくともそれに類するゲームに参加しているから、これは属人論法じみたものになりかねず、したがって適切な反論とはいえない可能性があることは了解している。よって、真剣に反論するならば、これは社会に関する認識装置、発見ツールであって、その能力に依存して評価されるべきであり、かつ、その能力については、内在的な観察を待たねばならないということを述べておく。さらに、4.「社会のアソビ大全」に収録されたミニゲームにおいて、具体化したかたちでミニゲームに否応なくプレイヤーとして参加させられていることが示されるものと思う。
 したがって、まずは、「社会のアソビ大全」全体について、『世界のアソビ大全』と比較しながら、説明していくこととする。
 第一に、前述した、ヨコの独立性について。「社会のアソビ大全」はこれを欠く。すなわち、「社会のアソビ大全」には、ミニゲーム間のルールの衝突可能性が存在する点で、『世界のアソビ大全』とは異なる。その原因としては、他者がプレイしているミニゲームと、自身のプレイしているミニゲームとの同一性が必ずしも担保されないにもかかわらず、プレイヤー間のコミュニケーションが「社会のアソビ大全」では可能であることが挙げられる。プレイするゲームが異なり、よって従うルールも異なる複数人が、それぞれのルールの許容する挙動をなすことで、それぞれの他者から、ルール違反なり、愚挙・暴挙なりとして評価されうる。なお、このとき、当事者らが共存するためには、何らかの調整規定が必要となるだろう。
 第二に、これまた前述した、タテの独立性について。「社会のアソビ大全」は、これも欠く。すなわち、何らかのミニゲームの、(そのルールに適合的にふるまうという意味での)プレイの帰結は、そのミニゲームについてはもちろん、他のミニゲームをする際にも影響を及ぼすのだ。『世界のアソビ大全』で説明しよう。たとえば、大富豪をプレイする(『世界のアソビ大全』のなかで例外的に、そのミニゲーム内で完結しつつもタテの独立性を欠くミニゲームということに注意)。大富豪のルールでは、前回のプレイの結果としての順位について、新たなプレイの際、前回高順位だった者はより有利に、前回低順位だった者はより不利になるような操作が求められる。これは同一のミニゲーム内での操作だが、「社会のアソビ大全」では、他のミニゲームについてもこのような操作がなされうるのである。『世界のアソビ大全』でいうと(これは仮定法である)、たとえば大富豪で高順位をとった者が、ポーカーをはじめる際、大富豪での高順位を原因・理由としてジョーカーを一枚獲得するようなものだ。ある挙動の結果が、そのときプレイされていたミニゲームを継続しているか否かを必ずしも問わず、現在のプレイのための条件に影響する。因果の連鎖がプレイヤーの存在論的同一性を媒介にして延々と続く。これを身近なスポーツでいうならば、本来ならば独自の競技といえる各種のミニゲームにつき、「時間」という同一の尺度を用いて合計時間の短さを競うようにしているトライアスロンを挙げることができる(たとえば、マリオカートの「カップ」システムのように、各競走の結果の順位に得点を割り振り、その合計点を競うこともできるはずであるが、これもあるミニゲームでの帰結が、一つのゲーム全体での有利/不利につながるという点では因果関係の存続の手法である)。
 第三に、タテの独立性(のなさ)とヨコの独立性(のなさ)との交点としてのプレイヤーについて。『世界のアソビ大全』は、一つのミニゲームを選択した限りでプレイできるのに対し、「社会のアソビ大全」では、必ずしもプレイヤー本人の選択によらずミニゲームが選択され、しかもそれが同時に複数であることも常態だが、それらのプレイを強いられる。よって、必ずしも自他の従うべきルール(これについてはヨコの独立性の説明を参照)だけでなく、自身が従うべき複数のルール間での衝突さえありうる。しかも、タテの独立性は欠くから、たとえば決断によって優先して従うことにしたルールをもつミニゲームでの帰結は、優先されなかったミニゲームのルールによる評価からの影響を受けうる。『世界のアソビ大全』でいうと(これまた仮定法)、大富豪での勝ち筋として、いわゆる「8切り」をしたとき、他の何らかの(プレイさせられている)ミニゲームではそのときに「8」を出すのは「大富豪で一回休み」のような効果をもたらすものかもしれず、「大富豪における敗北」につながりかねない事態がありうる。ミニゲーム間のルールが、それぞれ独自であるにもかかわらず、プレイヤーの同一性を介して複合的・キメラ的ミニゲームとして立ちはだかるのだ(もしかすると、「ウルトラC」的な、すべてのミニゲームで最適解とされる手が一致する場合もあるかもしれないが)。この特異的な交点は、タテの独立性の欠如とは、その同時性の点で異なり、ヨコの独立性の欠如とは、あるプレイヤーが自身が優先して従うルールをもつミニゲーム内部の帰結にも影響する点で異なる。後段について平たくいえば、ヨコの独立性の欠如は、将棋をやっているときに挟み将棋の観点から他者に文句を言われることを意味するが、「知るかバカが、俺たちゃ将棋やってんだよ」と、その文句をナンセンスなものとして切り捨てることができなくなるのが、このプレイヤーの同一性とプレイするゲームの複数性による特異な点である。将棋と挟み将棋を"同時に"プレイしなければならないのだ。
 このように、「社会のアソビ大全」は、各々のミニゲームのルールは独自であり、よって禁止される挙動も異なる一方で、各々の存在者は、同時に複数のゲームのプレイヤーであることがあり、そのとき、何らかのミニゲームのルールに違反した場合や違反せずともそのルールによって評価されることに伴って、そのミニゲーム内に留まらず、他のミニゲームについても、存在者としての同一性に基づき、そのプレイヤー対して同時、または後に、様々な影響を及ぼしうるといえる。
 なお、他者の挙動について、以上のことに付言する必要がある。以上の説明は、ある存在者自身の挙動と、それによる自身についての帰結についてであるが、さらに、ある存在者がミニゲームの当事者であるとき、他のプレイヤーの挙動から影響を受け、また、他のプレイヤーに影響を及ぼす。これは問題となるあるミニゲーム内部で完結せず、他のミニゲーム等での影響を含む。UNOにおけるあなたのプレイによってスキップされた者が、まさにそれによって将棋でも一回休みかもしれないし、反対に二回行動が可能となるかもしれない。
 以上をまとめると、次のようになる。我々は、何らかの効果を期待して行為(プレイにおける操作)をするが、効果の期待は自らが参加していると認識しているミニゲームのルールによるものであるということ。さらに、各人の行為の結果は、その行為時の目的の実現を必ずしも含まないということ。ミニゲーム間での相互的連関の結果として、特定のミニゲームのルール下で期待できるはずの効果が発生しないことや、発生しても予期せぬ別の効果をも発生させることがある。これが、「社会のアソビ大全」の概要である。
 なお、それぞれのミニゲーム間での、ヨコの独立性とタテの独立性の程度は、必ずしも均一ではなく偏りがあることに注意してほしい。こうした偏りについては、各論においてその要因を説明しようと思うが、先取りして書くならば、それはミニゲームをやるためには生きていかなければならないという、プレイヤーの生物としての要請と、具体的な実践の集積としての慣習・規範が背景として存在する。このような、各々の存在者による行為とその結果との関係の仕方こそが「構造」とされるものだと私は理解している。

4.「社会のアソビ大全」に収録されたミニゲーム
(1)導入
 街にはさまざまな人がいる。携帯電話で相手をどやしながら早足でどこかへ向かうスーツ姿の者、流行りのカフェの行列におしゃべりしながら並んでいる複数人のグループ、通行を邪魔するかのように立ち止まって騒ぐ、学生と思しき若者グループ、人目も憚らずキスをする二人組等々……
 彼らは、物理的に近しい場所に存在しながらも、他者の存在にはほとんど注意を払わない。まさにそのときのコミュニケーションの相手のみが「ホントウの存在者」であるかのように、コミュニケーションの非当事者の存在を、よほどのことがない限り意識しない。誰かに肩や鞄をぶつけたとしても、何もなかったかのように歩き続けることさえある。
 もちろん、「では一人で、黙々と歩いている者についてはどうか」という問いはありうる。すなわち、コミュニケーションの相手が存在しないと思われる場合である。たしかに、一見すると彼または彼女は目に見えるコミュニケーションをしていない。しかし、たとえばこれから友人と会食だとか、病床の知人のお見舞いだとか、近い未来のコミュニケーションを前提して歩いているのだ。それ以前の服装選びや、会って何を話すか、場合によってはいつ帰るかを想定して、またはしつつ歩いている。まあ、なかには本当に誰とも会う予定もなく、かといって目的地も決めず、よって服装も着の身着のままで、むやみやたらと歩き回って、そこらへんの花とか鳥とかを偶然見つけて喜ぶ俺みたいな奴もいるだろうが、これは例外的だろう(これは、後述のように、意図せずとも、恋愛というミニゲームにおいて「キモい」とされかねない致命的な挙動だろう)。
 さて、それぞれの人間は、先ほど切り取った瞬間の種類のコミュニケーションに固定されているわけではない。相手や場といった様々な要素に応じて、「適切」とされる種類のコミュニケーションに参与しているのだ。たとえば、職場に向かうためにはアロハシャツは許されないだろうし、職場で上司に対し、カフェの行列で友だちに言うような「この前◯◯いう映画みたんやけどさぁ、お前もみた?」という声かけも許されないだろう。この適切さを決めるもの、それがミニゲームのルールである。実際、なぜアロハシャツではいけないのか、なぜ敬語で話さなければならないのか、なぜ映画という話題を選んではならないのか、という問いはありうるが、社会人というミニゲームではそれがルールだからというのが答えだろう。そして、重要なことに、こうした「ルール」は、問いや違反があって初めて対象化されることが少なくない。
 「社会のアソビ大全」内のミニゲームとは、可能なコミュニケーションのうち、特定のものを適切とし、その他を不適切とする独自のルールをもちながら、ルール自体が実践、つまりプレイとしてのコミュニケーションがなされることによって存在し、その下で連鎖するコミュニケーションの総体といえる。たとえば、「しりとり」などは、これにあてはまる。もちろん、ミニゲームのルールは、しりとりほどわかりやすいものだけではなく、シニフィエシニフィアンとの関係の規定などもそれに含まれうる。しかし、ここで注意しなければならないことは、プレイヤーは、自らが参加するミニゲームを必ずしも主体的に選択したというわけではなく、さらに、そのルールについて予めの了解をしているわけでもないという点だ(「りんご」という文字が、なぜあの果実を意味するのか、「めてぬ」でもよかったのではないか、などは前景化されない)。先ほど述べたように、ミニゲームのプレイヤーは、そのミニゲームのルールを相対化・対象化する機会が当然にあるわけではない。さらに、ヨコの独立性とタテの独立性のところで説明したように、プレイヤーは唯ひとつのミニゲームだけでなく、同時に複数のミニゲームに参加しうるが、こうした複数的な参加自体やミニゲーム間の照射的関係も明確に意識されるわけでも必ずしもない。コミュニケーションをする者はすべて、何らかのミニゲームに縛られている。
 以下では、決して網羅的ではないが、大多数が参加していると考えることができる代表的なミニゲームを紹介し、それぞれの関係性についても若干補足することにする。
(2)ミニゲーム「経済」
 ミニゲーム「経済」では、貨幣を媒体とするコミュニケーションがなされる。ここでいう「媒体」は、必ずしも物理的な交換の要素の一部になる必要はなく、各プレイヤーの行為が、その貨幣の存在を前提として意味をもちうる、ぐらいの意味と解してほしい。貨幣の使用や獲得といった効果を期待してなされる、と他のプレイヤーからみて解釈されうる行為が、ミニゲーム「経済」でのプレイングとしてカウントされる。
 たとえば、あなたが人に善意で親切にしたとしよう。相手が「ありがとう!」と言って500円玉を渡してきたとき、ミニゲーム「経済」のプレイをしていたことになる。「いや、お金が欲しくてやったわけじゃ……」というのがあなたの本音であり、善意の交換を核とするミニゲーム「道徳」をプレイしていたつもりであったとしても、それがミニゲーム「経済」でのプレイングとして機能してしまうことがあるのだ。ミニゲームからミニゲームへの移行というか、まさにこれがヨコの独立性の欠如なのだが、このことがタテの独立性の欠如の要因の一つにもなりうる。あなたは、その後似たような「親切」をしたときや、同じ相手に異なる親切をしたとき、「200円しか払わない!?相場を考えろ」だとか、あるいは、ミニゲーム「道徳」のプレイヤーから「ありがとうね!」と微笑まれても「0円ねぇ、ケチなババアだぜ」なんて考えるようになるかもしれない。社会心理学の分野でいえば、保育所のお迎えに遅れた場合の罰金制度の導入のお話がこれに関係するだろう。ちなみに、結論だけいうと遅刻者は増えた。
 このように、単体の行為者の想定によらず、相互に行為しあうプレイヤー間のコミュニケーションの種類がどのミニゲームにおけるプレイングであるかを決定する。そして、ミニゲーム「経済」は、コミュニケーションの規模が極めて大きく、そのコミュニケーションから断絶された状態では生きていくことが困難である。テレビの無人島生活のように狩猟・採集で生きていくなら話は別だが、現代の資本主義社会において、このミニゲームをすることはもはやデフォルトだ。
 なお、このミニゲームでの成功は、(資産などの潜在的なものを含めた)所有する貨幣の量によって測定されるが、貨幣を使用することで他のミニゲームの多くにおいて、いわゆる「課金」が可能であることに注意してもらいたい。これは、ミニゲーム「経済」のデフォルト性から、他のミニゲームのプレイヤー(の多く)もまた貨幣を欲することから説明できよう。福沢諭吉を、今なら渋沢栄一を何枚か差し出すだけでミニゲーム「経済」がたち現れるのだから。「社会のアソビ大全」の「本編」化しているともいえる。他のミニゲームに先だって説明したのは、ミニゲーム「経済」が、他のミニゲームそれぞれにいかなる影響を及ぼすかを考えるために必要なためだ。
 ところで、ミニゲーム「経済」の性質上、貨幣というメディアの存在を前提するにしても(物々交換の社会は成立しうるが)、他のルールは偶有的であるということに注意しなければならない。たとえば、貨幣が今のようにメダルと紙切れでなくとも、石ころであろうが塩であろうが、何だって構わないわけである。コンヴェンションが現在の貨幣の外延として円やらドルやらの紙切れ等を含ませているにすぎない。さらに、いわゆる「能力主義批判」の一環としても機能しうるが、ミニゲーム「経済」内で、たとえば特定の能力や資産A1の発揮の換金率と、他のそれらA2の発揮の換金率とが異なることがあるが、それもまた偶有的なものだ(換金に「努力」が必要であることは、換金のための「努力」の量の差異を無視する理由にはならないし(というかそれを含めて「換金率」だろう)、その差異が専ら偶有的なものから起因するのであれば、少なくとも生きていけるだけの「取り分」の再分配は是正的正義の観点から正当化できるように思われる)。
 要するに、コンヴェンションがルールを具体化し、そのルールに我々は知らず知らずのうちに適合的にふるまっている。これは必ずしもミニゲーム「経済」だけの話ではないが、とくに意識が必要と思われるため再確認しておく。他のミニゲームをプレイしているときも、このミニゲーム「経済」のルールを知らず知らずのうちにひきずっているのだ。自らが背負っていると知らない荷物を、降ろすことだけを意識して行うことはできない。
(3)ミニゲーム「性愛」
 ミニゲーム「性愛」では、個々のプレイヤーは何らかの性別に対応したかたちで観念される。現在は、男または女という性別の二元論的な割り振りがなされている。自身の性「らしい」をふるまいをすることで、より異性「らしい」プレイヤーと「交際」であったり「結婚」であったりをすることがこのミニゲームの目標だ。「愛を媒体とするコミュニケーション」というように言ってしまってもよいが、「愛」という言葉は性愛だけではなく、恋愛やその他家族愛などの親密性と結びつくこともあるから、それらと区別されていると観念されているこのミニゲームにおいては多少ズレがあることに注意してもらいたい。異性愛主義と男女二元論とがむすびついているのが現在のミニゲーム「性愛」の環境だ。この環境自体が偶有的であることはここで指摘しておくが、以下では、現環境を一定程度前提して話を進める。
 異性からの性愛を獲得することを目指しているということ、一定の性愛を獲得しているということ等から解釈されうるような行為が、ミニゲーム「性愛」のプレイングとしてカウントされる。アセクシャルな者なども一定数存在するということが認識されつつあるにもかかわらず、「異性の交際相手(彼氏/彼女)はいるの?」等の質問によって達成度がはかられることが多々あるが、これはこのミニゲームの参加人口が多いか、多いという擬制がはたらいているからこそ発されるものだ。
 現在の環境では、「男らしさ」の程度の両端は「かっこいい/かっこよくない」で、「女らしさ」のそれは「かわいい/かわいくない」だ。「女らしさ」には「美しい/美しくない」を置いてもかまわないが、これは「女らしさ」のなかでも容姿のみに関するコードであるように思われ、所作等がプレイングとして含まれるこのミニゲームでは「かわいい/かわいくない」がその上位概念として適切だと思われる。
 これらの各コードについても、外延として含まれる要素は偶有的に定まっているにすぎない。「足が早いとかっこいい」というのは、もしかすると進化論的合理性があるかもしれないが、たとえば吉本隆明を読んでいたり、ゲバ棒を持って連合赤軍でベラベラ喋ったり、英語を話したりするのがかっこいい、というのは(一昔前の話だが)、少なくとも一過性のものだといえよう。
 こうした偶有性の現れとして、「かっこいい/かっこよくない」及び「かわいい/かわいくない」の各コードにおいて劣位におかれるものの表現の変遷を捉えることもできる。たとえば、最近話題になった、あるツイートでの「キモい」は、ある男性が「かっこよくない」ことと同義のものとして扱われていたように解されるし、「かわいくない」の同義語としては「生意気」だとか「小賢しい」だとかが当てはまるだろう。むしろ、こうした「かっこいい」や「かわいい」に対する二重の否定が「かっこいい」と「かわいい」を成り立たせているのかもしれない。
 さて、このミニゲーム「性愛」の、男/女からはじまるあらゆるコードの束は、実践を通じて強化・再生産されるわけであるが、以上でみたように、それは恒常的に同一の内容をもつということを意味しない。女は「かわいい」と思われるための挙動を、男は「かっこいい」と思われるための挙動をするということが保たれている限り、それぞれの目標達成に影響する変数それ自体は変化しつつも、このミニゲームは存続しうる。
 男/女という性別間の差異と、同性間でのその性「らしさ」の程度における差異のいずれをも保ち続けなければ、ミニゲーム「性愛」における勝者になりえない。「男は女と違ってこうだ、さらにその男のなかでもボ、俺は……」だとか、「女は男と違ってこうよ、そのなかでもアタシは……」だとかを、(言葉にするかどうか、意識するかどうかはさておき)このミニゲームをプレイする限り示し続けることとなる。男は女から「男らしい(かっこいい)」とされることに、女は男から「女らしい(かわいい)」とされることを目指すのだから。
 なお、このミニゲーム「性愛」は、ミニゲーム「経済」と興味深い関係にある。「男らしさ」のなかに「稼得能力」の要素が、「女らしさ」のなかに「癒し」や「支え」の要素が入り込むことで、男性はミニゲーム「経済」での成功を促される一方、女性はミニゲーム「性愛」における成功とミニゲーム「経済」における成功とが緊張関係に立つ場合が存在することとなるのだ(たとえば、ほとんどの場合主体が女性の「寿退社」という文化や、それを前提とした雇用に関する決定)。まあ、現在はこの事態から生じる帰結につき賛否両論あるが。
 また、ミニゲーム「経済」のなかの職業という領域にミニゲーム「性愛」が影響することがある。まず思いつくのが、セックスワーカーや容姿以外特筆すべき点のないタレントや役者だろう。ただし、そこにはコミュニケーションの種類の一致はない。一方はミニゲーム「経済」のプレイングを意図しているのに対し、「客」サイドがミニゲーム「性愛」のプレイングとして捉える場合のことをここでは想定している。悲しい。お金出しちゃった時点でそれはミニゲーム「経済」の支配を強く示す。ミニゲーム「性愛」下のコミュニケーションは、もはやミニゲーム「経済」下のコミュニケーションに変質する。      
 こうしたケースではなく、ミニゲーム「性愛」におけるプレイングにおいて、何らかの「欠点」があるとき、「課金」によってそれを補う、という関係のあり方を考えよう。美容整形や美容食品・化粧品販売などは、常にそのときどきの「かっこいい」や「かわいい」を実現する手段を提供するという点で、偶有的だが普遍的な職業だ。いや、むしろ、ミニゲーム「性愛」におけるコードの偶有性とそれによる実質内容の変化があるからこそ、普遍的な職業たりえているのだ。誰もが同等に成功できないからこそミニゲーム「性愛」は続くが、ミニゲーム「性愛」が続く限り、成功のための条件に外見の要素が含まれ、かつそれが変化しつづける限り、ニーズがなくならないからだ。ファッション誌が「かわいい」を決めるのではなく、ファッション誌はミニゲーム下での関数の変化を敏感に捉えているにすぎない。予言者ではなく預言者なのだ。
(4)ミニゲーム「権力」
 一瞬、ミニゲーム「政治」とすべきかと思ったが、別に実存を左右するわけではない場面にもこのミニゲーム下でのコミュニケーションは存在するから、緩やかに解してもらいやすいよう、「権力」とした。政治学なんかでは、「権力」の概念を、主体Aと主体Bについて、放っておいたら主体Bがやりそうにないことを、主体Aのはたらきかけでやったとき、主体Aに権力がある、なんていう説明がされる。たとえば、親から宿題をやりなさいと言われて机に向かう子どもは、親の権力によってそうさせられているのだ。ミニゲーム「権力」は、こうした権力を獲得し、行使することを目的とするコミュニケーションと解されるとき、プレイヤーが存在するといってよいだろう。
 ここでの媒体は、いわば「ハラスメント」だ。言い換えれば、このミニゲームにおけるコミュニケーションは、「お前を自分と対等な存在とは思わない」というメタメッセージの交換というかたちで把握できる。自身のメタメッセージに対する異議申立てのための当事者適格を他者には認めないことが勝利条件だ。言い換えれば、目下のコミュニケーションを打ち切る決定をする者に権力が宿る。この点で、コミュニケーションをしないためのコミュニケーションという、アイロニカルなミニゲームといえるだろう。
 このミニゲームでは、たとえば先ほどの「宿題をやりなさい」の例だと、子がすんなり言うことを聞けば親の勝利だが、子が「もうちょっとポケモンしてから」とかなんとか言ったときに、「いいから今すぐやりなさい!!!」とキレ散らかすことで、子の挙げた理由を一切考慮することもなく、自身の結論を強制することが求められる。ここには、「ポケモンと宿題との優先順位」という議題についての対話の余地が本来存在するが、対話をしないことによって、「お前を自分と対等な存在とは思わない」と伝えているのだ。
 上の例は、ある程度有利/不利が存在する場面のことだが、権力の相対的有利/不利を出現させるためには、様々なやり方がある。上の例は、背景には腕力や経済力の差がハードパワーとして存在することによる現象だが、そんなものがなくても権力は獲得しうる。要するに、「泣く子と地頭には勝てん」というように、相手の話を聞かず、要求内容を喚き散らかすだけで十分なのだ。面倒くさい奴になること、これがこのミニゲーム「権力」のミソだ。見ざる聞かざるオコリザル、「舐められたらオワリ」、これがミニゲーム「権力」。
 しかし、ここで疑問に思われた読者もいらっしゃるだろう。「ハードパワーがあるときはともかく、それを欠くときは無視するか、堂々と相手の要求に反する行為をすればよくないか?」と。その通り。そうすることで、「お前を自分と対等な存在とは思わない」をお返ししていることになる。「お前が何を言おうが、俺はまともにお前の話なんか聞かへんわ。勝手にしやがれ」だ。それでこそミニゲーム「権力」のプレイヤーといえる。これに対してはさらに、無視されたのちに、「俺、この前こうしろって言うたやんな?なんでやってへんの?何回言うたらわかるんかなぁ、ハァァァ~~ッ!!!(クソデカため息)」という質問で再アタックがなされるかもしれないが、これに真面目に応答してしまうといけない。たとえば、「素人のASMRかよ」とかなんとか言いながらクスクス笑ってその後無視が正解。最後にレスをしたほうが勝ち、という2ちゃんねると同様に、最後にハラスメントをしたほうが勝ちなのだ。
 ……実に愚かしいミニゲームだが、このミニゲームの競技人口は少なくない。ミニゲーム「権力」は、一度有利/不利があるプレイヤー間で成立してしまうと、その後の逆転はなかなか難しい。一度ある相手に対して折れると、その後も折れ続けることになりがちだ。たとえば、「敬語」なんかを使ってしまうと、きっかけがない限り「タメ語」に移行しにくい。いきなり「タメ語」に移行すると、「は?お前誰に口聞いとん?もういっぺんだけチャンスやるから俺にちゃんと話しかけてみ?」ということになりかねないからだ。敬語を使うことで、上下関係は再確認され、強化されるのだ。なんで一年先に入学しただけの人間に敬語なんぞ使わなきゃならんのだ、と中学のときに思っただろう。そうした慣習の共同体のニューカマーだったから。それが社会人になると当たり前に思うのだから、慣習というのは恐ろしいものだ。
 また、特定のトピックについて「何を今さら言うとんねん」だとか、「お前の意見は聞いてへん、黙っとけ」だとかを一度通してしまうと、そのトピックに関する話が続く限り、話をできないなんてこともあるだろう。さらに、このような発話がなされなくとも、知識の多寡(「バカなんだから黙っとけ」)や「空気」(「シラけるわぁ、しゃべんな」)によって異議申立てが困難になるときもある。なお、そもそもトピックの選択についても、「このトピックを選ぶ」というのは「別のトピックを選ばせない」ということでもあり、そこからミニゲーム「権力」でのプレイングが始まっていることにも注意しなければならない。
 つまり、権力の源泉も、必ずしもハードパワーに限られないのだが、むしろハードパワーが源泉にならない場合もあることに注意しなければ、ミニゲーム「権力」の把握でミスを犯すことになるだろう。何が「権力」に変換されうる素材なのか、文脈に応じて読み取ることが必要なのだ。これもまた、権力という箱に何が入るのか、換算率はいかなる関数によって決定されるのか、という観点から観察される。
5.補論というか余談──ミニゲームの内面化──
 以上が「社会のアソビ大全」の視座からの社会の観察だが、それぞれのミニゲームのプレイについて、「あぁ、こういう人いるわァ~」や、「あるある」と思ってくださることもあっただろう。そして私自身、これらのミニゲームに参加する者でもあるから、「あるある」適合的なふるまいをしてしまっていることだろう。美人(これが専ら女性を指すのも不思議な話だ)が歩いていればジロジロみたくなるし、日本銀行券という紙切れはもちろん欲しい(が働きたくはない)。
 注意していただきたいのは、通常、我々はこうした多様なミニゲーム間の区別を意識せずに、それでいてそれなりにそのときプレイするミニゲームのルールに適合的にプレイしているということだ。プレイヤーそれぞれの存在論的同一性に基づき、コミュニケーションの種類、ひいては参加するミニゲームが変わったとしても、ミニゲーム間での移行は意識されない。それによって、「社会のアソビ大全」というゲーム全体のプレイ履歴として個人史が把握されることとなる。「社会じゃそんなことは通用しない」というミニゲーム「権力」的発話は、自身がプレイしてきた諸々のミニゲームのルールに違反する、という程度の話なのだ。「社会のアソビ大全」のすべてのミニゲームをしたとも限らず、それぞれがミニゲームであるということも理解されないままに、大文字の「社会」が語られる。
 さらに、自身の参加する諸々のミニゲームには、他者も「当然に」参加しているとみなす向きもある。ミニゲーム「性愛」のところでも述べたが、必ずしもそれに参加するとは限らないものであってもだ。ここに、コミュニケーションを基点として分類されるべきミニゲームの種類を、存在者の性質として捉える視点が内在している。すなわち、「社会のアソビ大全(に収録されたいくつかのミニゲームの)のプレイヤーである」ということから、「特定のミニゲーム(たとえばミニゲーム「性愛」)のプレイヤーである」ということを推測しているのだ(競技人口の割合から必ずしも帰納的に「弱い」とも言い切れないが)。こうした誤解によって、他者の行為はすべて、自身のやってきたミニゲームの観点から評価され(そもそもミニゲームが異なるとき、ルールが異なるから、よってしばしば違反とされ)ることとなる。本記事を書く俺がいうことでもないが、ゲーム脳ここに極まれりだ。自分がたまたまやってきたミニゲームのルールを、もはや他者も受け入れて実践するべきだということを主張しているのだから。本記事ももう終わりだが、これをミニゲームの内面化と呼ぶことにする。
 ミニゲームの内面化には、さらなる帰結があり、本人がずっとプレイしてきた結果として、その人のとりうるコミュニケーションの種類が、内面化されたミニゲームに規定されてしまいかねない。ミニゲーム「権力」を内面化した者はクレーマーになるし、ミニゲーム「性愛」を内面化した者はモテるとかモテないとかの話をずっとしている。
 ミニゲームの内面化を避けるべきとすれば、まず、自分がやってきたのはゲーム、しかもそのなかのいくらかのミニゲームにすぎないという認識が必要だ。そのうえで、それらは偶有性をもつものだという点で、他のミニゲームと根本的には変わらないということを理解しなければならない。そもそも「社会のアソビ大全」に収録されたのも偶然みたいなもんなんだから。ミニゲーム間の調整規定について考え、主張することは有意義だとは思うが、あるミニゲームの観点からルール違反だからといって直ちに非難できるほどには、それぞれのミニゲームのルールは必然的内容をもつとは限らない。

「論より証拠」という論

 タイトルを見て、「あぁ、お前のTwitterアカウントで何度かした話だろ」と思われる方もいらっしゃるだろう。実際、重複するところがほとんどである。それゆえ、「知ってるよ」という方は読み飛ばしていただいてかまわない。要するに、「論より証拠」における「証拠」もまた「論」ありきではじめて証拠たりうるという話である。★マーク以降で、各論的なお話をするのでよければそこでまたお会いしましょう。
 「論より証拠」との表現は、相異なる複数の主張・論の対立とその解決(解消)の文脈で使用される。主張がいかに論理的に筋が通っていようが、現実の事実の存否とは矛盾する主張は誤りだとわかる、という趣旨の慣用表現である。
 たとえば、「雪山山頂のある小屋に現在人が存在するか」ということについて、A、Bが対立しているとしよう。Aは、「小屋の扉に向かう人の足跡が雪に残っている。雪はさきほどからコンコンと降り続いているから、足跡がついて時間が経っていないことがわかる。よって、ついさきほど扉まで歩いていった人がいるはずだ。さらに、引き返した足跡がないから、その後出ていないと考えられる。したがって、現在、あの小屋には人がいる。」と主張する。これに対しBは、「あの小屋の窓がみえるかい。窓を見るに、あの小屋は明かりがついていない。雪明かりがあるとはいえ、小屋のなか人が過ごすには暗すぎるだろう。人がいるなら、電灯がついているはずだ。ところが、現実はご覧のとおり。その他にも煙突から煙が出ていないこと等、人がいるならきっと起こるであろう出来事が起こっていない。したがって、人はいない。」と主張している。そしてA・Bの二者は、たとえば「後ろ向きで小屋から出てきた足跡を、小屋に入った足跡と勘違いしてるんじゃないか?」だとか「小屋に入ってすぐならまだ明かりや暖房を使っていないのは不自然ではないだろう」だとかの応酬が始まった(多少Bが劣勢に思われるが)。こんなとき、適用されるのが「論より証拠」という考え方であろう。つまり、小屋に行って中に人がいるかどうかを確かめれば良いのだ。
 さて、小屋に行って確認したところ、中はガランドウであった。このとき、Aは、その主張の結論において誤っていたこととなる。「小屋に現在人がいる」は「小屋に現在人はいない」と矛盾するからである。しかし、それではAは、その主張のどこに間違いがあったと考えるべきなのだろうか。これを明らかにするには、Aが誤った原因が何であるのかを分析する必要がある。
 たとえば、小屋には実は、議論時には死角にあった裏口があると仮定しよう。小屋に居た人間がいたとすると、その裏口から出ていった可能性がある。その人間が、「その後出ていない」というAの判断とは異なり、裏口から出ていったのが真相であれば、この箇所につきAは情報不足によって判断を誤ったことになる。さて、小屋に着いたAとBが、裏口を発見し、そこから山を下る(小屋に向かうものと同じ大きさの)足跡が続いているのを目撃した。そして以上の事実から、「真相」に近いストーリーを推測したとすると、たしかにAは「その後出ていない」の箇所の誤りを認めることになるだろう。だが、Aは以上の情報から、必ずしも自らの誤りを結論するとは限らない。たとえば、小屋に向かってAとBが確認のために移動している間に、山小屋の人間が出ていった可能性を考慮し、議論でいうところの「現在」という時点には、やはり山小屋に人間が居たのだと主張することも可能だろう。ある時点t1に人が存在しないことと、他の時点t2でのそれとが同じであるといえるか否か、という問題になりうるのである。
 この「時差」のトリックが気にくわない方もいらっしゃるだろうから、別の仮定をしてみよう。AとBが瞬間移動して小屋のなかに入ったとする(なお、その世界で瞬間移動できるのはこの二人であるとする)。さきほどは裏口から山を下る足跡が運良く発見できた。しかし、その足跡が発見できないとき、AとBはいかなるストーリーを推測するのだろうか。小屋に入った足跡の主は存在するのだから、どこかから出ていっていなければならない。そして、目下出口として有力なのは裏口である。Aによる「その後出ていない」というのが誤りであったから結論においても誤っているのだとするためには、出ていった足跡は存在したが消えたという線や、出ていったがそもそも足跡が存在しなかったという線を主張することになる。前者だと、たとえば裏口のある面が降雪がより激しいためにこちらの足跡だけが消えたのだという説明がなされるであろう。また、後者だと、煙突と木を結びつける縄をつたって出ていっただとか、小屋のなかで靴に大きな板をはりつけ、雪にかかる圧力を小さくしただとか、足跡をつけずに済むような説明がされるだろう。後者の場合、必ずしも裏口が存在しなくとも、足跡の不在による「その後出ていない」とのAの判断の誤りを指摘しうる。裏口があったからといってそこから出たとは限らないが、足跡を残さない方法があり、それがなされたならば、表口から出ていようが同じである。
 しかし、しかしである。そもそも、「小屋に向かう足跡」のほうの存在がなかったという可能性もある。Aは、「小屋の扉に向かう人の足跡」から、人が小屋へ入るために移動したことを読み取った。だが、AとBが、山小屋の確認の前段階、応酬をはじめたときに、その一部として、小屋の扉まで続く足跡につき、「後ろ向きで小屋から出てきた足跡」かもしれないということが述べられていた。たしかに、後ろ向きで歩き続けるという想定は、通常人がそれを行うというものであるとすると奇妙ではある。しかし、小屋に以前から住んでいて、ある日山を下ることにした山小屋の住人が、誰かをひっかけようとしてそれをした(実際、筆者は雪の積もった日に、壁から出てきた者がいると錯覚する者あるを信じ、後ろ向きで壁まで行くことがある。その後自分の足跡を踏みつつどこかに行く)のであったり、あるいは、滑落しないよう小屋に結びつけた縄を握りながら後ろ向きで歩いていたとするならば、爪先のあるほうが進行方向であるとは必ずしもいえない。以上の説明だと、爪先の示す方向はむしろ逆である。そうだとすると、Aは主張における出発点からして誤っていたということになる。
 以上が、Aの主張における誤謬がどこにありうるのかという分析である。結論については、その結論たる命題である「小屋に現在人がいる」は偽だとして、それまでのAの主張の誤りを指摘するためには、Aの主張を構成する、事実の存否の認識(例としては、裏口の存在)はもちろんのこと、事実の存否を根拠とする推測(例としては、表口の足跡の存在から、その足跡の主が小屋に入ったことや、出たならばそれとは反対方向の足跡があるはずだということの推測)をその対象とする必要がある。後者については、Aの認識する、ある事実の存否が、Aによる推測よりも、より蓋然性の高い推測によって別の事実の存否を示しうることを指摘するということになるだろう(それが成功するかどうかはさておき)。
 このように、所与の事実の存否から一体何がいえるのかというのは論争的でありうる。言い換えれば、所与の事実の存否が示すものが何であるかは、必ずしもアプリオリに定まっているとはいえない。足跡の爪先の方向が進行方向であるか否かさえ、状況によっては論争的なのである。たしかに、Aの誤謬の要因を探っているなかで取り上げた各々のストーリーとしての仮説は、はじめAとBが主張していた仮説に比べると劣ることは認めなければならない。奇妙であったり、極端であったりする存在者を想定する仮説は、少なくとも科学的な仮説としては、そうでない仮説に劣後するものとみなされる(もしかすると現実にそのような存在者がおり、その存在者を想定する仮説が真実と合致することもあろう。だが、少なくともそうした存在者が実在すること、ある説明にその者が関与することの蓋然性があることを別途説明できなければならない。さもなくば、「科学的」な見地からすると劣後するとみなさざるをえないだろう)。しかし、本記事の主眼は、仮説に優劣をつけることでなく、「論より証拠」について分析することだから、「証拠」となる事実と、それを説明、性格付けする主張である「論」との、次のような関係の理解に資すればよい。すなわち、何が「証拠」となるかは、論に先行して同定できず、ある事実が特定の論を確証/反証するかは、その論に相関的である。何のことはない。何を言っているかに応じて、それを覆すべき必要性を認めさせるべく確認されなければならない事実の存否は異なるという話だ。
 なお、以上の例は、特定の事実の存否を争点とする相異なる主張であり、いかなる仮説をとろうと、まさにその事実の存否が確認されたなら、少なくとも結論について誤りを認めなければならない(同時に、仮説は仮説として妥当であったと言うことは許されよう)。
 しかし、争点となる「まさにその事実」自体を直接には確認できない場合(例として、前述の「時差」のトリック)や、必ずしも観測可能な個々の事実ではなく、観測可能な事実群に対する抽象的・評価的な側面についての争いがある場合(例として、ある社会に女性差別があるか否か)には、事情が異なる。すなわち、ある事実の存否を以て直ちに主張の成否を断定することができるとは限らない。
 主張と整合的に解釈することが可能である限り、その事実の存在は主張の誤りに結びつかない(惑星の運動につき、天動説もまた一定以上に整合的な説明を与えていた)。直接のアクセスが可能でないような事実の存否が問題となるとき、言い換えれば確認できる事実の存否からの推測や評価に頼らざるを得ないとき、その推測や評価の「質」が問われるのである。確認できるその事実が、なぜある論にとって確証となり、または反証となるのか。このことを十分に説明できない限りは、事実についての摘示は何ら意味を持たない。証拠は論あって初めて証拠たりうるのである。「論より証拠だ!」というとき、証拠の証拠性を支える論の内容が、一見して明らかで、かつそれなりに説得力を感じる場合(正しいかどうかはわからない)に我々はほぼ無意識にそれを受け入れているにすぎない。
 以上、「論より証拠」という慣用表現が適用されるケースと、その注意点についてみてきた。改めて要約するならば、論同士の争点となる事実そのものにアクセス可能であるときはアクセスすればよい。ただし、当該事実の存否にアクセスできない場合には、いかなる事実の存否が論にとっての確証/反証となるのかは、蓋然性による推測や評価に依存する。命題と矛盾するのは命題だけであり、事実は命題とも事実とも矛盾しえないのである。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
 さてやって参りました。とはいうものの、特別新しいことを言うつもりはない。以上の話から、Twitterにおける「反証」について概観しておこうというだけである。
 何らかの主張に対して、リプライや引用RTのかたちで、「◯◯(という存在する事実)」だとか、特定の事実に言及するものがある。それが、◯◯という事実が存在するといことと矛盾するのは、当該事実が存在しないということだけである。たしかに、◯◯という事実が存在することが一見して明らかであり、かつ、元の主張がその存在を否定しているときに限り、語用論的分析として「反証」として理解可能ではある。しかし、その事実(が存在するということ)から一体いかなる命題を推測し、よって元の主張を構成するいずれかの命題とそれとが矛盾すると言いたいのかが、まったく分からないケースがしばしば見受けられる。
 また、「経験」という言葉によって、何らかの正当化をはかろうとするものもあるが、経験は、一般に、感覚によって捉えてきた事実の存否(とくに事実の存在)の束を含む概念であるが、こうした言葉によって、いかなる事実の存否の束についての言及であるのかわからず、よってその束がいかなる命題を支持しうるのかも第三者にはわからないようにするものもある。
 これに加えて、「命題の事実化」とも呼ぶべき事態も生じている。本人のなかでは、言及された命題X1から、他の命題X2が真であることが推測され、最終的に導かれる命題Xn(nは2以上の整数)は、批判対象である主張を構成する命題と矛盾する、ということなのだろう。しかし、その理路が明らかでなかったり、再構成を試みても、その「推測」が無茶苦茶だったりするのである。たとえば、『鬼滅の刃』の作者が女性であることが、一体どうして『鬼滅の刃』において女性キャラクターが「見られる性」として描写されないことに結びつくのか(その再構成はTwitterにおいて試みた。端的にいえば、人間ならば自らの属性に不利なことはしないし、かつ、作品は作者の意識のみが排他的に規定し、かつ、作者の意識はジェンダー規範からまったく自由であるとしたとき、『鬼滅の刃』の作者が女性であることは、女性キャラクターが「見られる性」として描写されないということと結びつく。または、もしかすると女性であることが本質的に何らかの性質をもつことであると想定しているのかもしれない)。
 以上、Twitterにおける、ある種危険な「論より証拠」の例であった。
 最後に、タイトルは「「論より証拠」という論」であるが、仮に「論より証拠」を、(「より」という比較の表現は比較対象間のトレードオフを意味しないから、論も用いることは甘受するにしても)「証拠」によって示すことは可能だろうかという疑問をここに記しておく。

「メタい」のうすら寒さ

 以下は、完全に趣味で書くだけなので個人的かつ素朴にすぎる雑感にすぎないことをおことわりしてから記事を書き始める。
 漫画等においては、読者の属する世界とは異なる世界が舞台となることが多い。たまたま読者の属する世界に極めて似た世界で物語が展開されようと、読者はその世界での爆発事件が、自分のリビングにあるテレビからニュース速報で流れてくることを想定したりはしない。「我々と彼らとでは属する世界が異なるのだ」という断絶の意識が、少なくとも「我々」読者の世界認識である。
 ところが、漫画等の登場人物が、「彼ら」の世界ではなく「我々」の世界(か、少なくとも「彼ら」の世界とは異なり、かつそれは「我々の世界」との共通点をもつもの)について言及する、または「我々の世界」についての知識を前提する発言をすることがある。それは、「二次元」の世界に生きたいと願う者がしばしば口にする、「自分を微分したい」というのとは逆に、彼らの世界から少なくとも一部の登場人物が「積分」されているような錯覚を抱かせる。「この本を読んでいる君!」というデッドプールの姿を思い浮かべていただきたい。または、アニメの場合だと、同じ人物Xが声優を勤める、異なる作品に属する複数の登場人物について「Xが声あててる同士」などの台詞。
 こうした、彼岸と此岸との断絶を無化する描写につき、読者の一部は「メタい」などと評価し、概ね好意的な反応を示すことが多い。


 これがうすら寒いのである。「メタい」手法は、彼らの世界の固有性を犠牲にする、「作者」の自己の存在主張の、使い古された手法の一つにすぎない。彼らの世界の固有性を保護する外縁は、その手法により脆くも崩れ去りうるのである。「メタい」換言をすると、「メタ」い発言をするキャラクターに対する作者の「入れ知恵」が透けて見える。そのとき、キャラクターはもちろん、彼らの世界は、自律した世界ではなく、作者のおもちゃ箱か、よくできたレゴワールドにすぎなくなってしまう。我々の世界の下位概念、N分の1スケール(Nは十分に大きい数)である以上、我々の世界からの干渉を常に作品の裏側に持たざるを得ない。つまり、彼らの世界における「メタい」言動は、我々の世界の植民地となる投降の白旗なのである。そこでの新たな指導者は作者。読者は作者による行政を監視する立場である。
 もちろん、「メタい」言動と彼らの世界の自律性は必然的にトレードオフの関係に立つわけではない。「バランスの問題」と言ってしまってよかろうとは思うし、作品のなかで、作劇上の必然性を以て「メタい」言動を効果的に用いることには反対しない。しかし、作者による「メタい」手法の自己目的化や、または読者による「メタい」ものイコール高尚なもの、といった想定には断固反対する。たとえば、作者が作品を通じて何らかの主張を行おうとしているとき、論説文と物語とを区別するものは、そのテクストにおける話者が、我々の世界において語っているか、それとも彼らの世界において語っているかではないか(まあそれを区別するのは何か、という問いがありうるが、今回は留保する)。後者が固有性のある彼らの世界において語っている限りで、我々の世界におけるその主張の真偽とは独立して、彼らの世界における真偽は別様でありうる。物語の展開する彼らの世界それ自体をまずは直視しなければならない。そのうえで、しかし、その主張を「我々の世界についての主張でもありうる」とすることは可能である。ただし、あくまでも、我々の世界に存在する読者として彼らの世界の物語から解釈として汲み出すことであって、彼らの世界の誰かが私たちに言っていたからなどではない。仮に物語の作者が、「メタい」手法によって、彼らの世界である自身の作品の登場人物をしてまさに我々の世界についての主張を語らしめるならば、作者であろうが、彼らの世界に対する侵略行為にほかならない。物語の皮を被ることによって論説文ならば負うべき責任を回避するものにも思われる。
 このように、「メタい」手法と彼らの世界の自律性とは緊張関係にあるが、以上は作者による「メタい」手法の危険性である。しかし、最近では、読者のほうが「メタい」視点しかとれなくなっているように思わせるようなこともある。たとえば、「作者は、このときには後から出てくる設定を考えてなかった!だからこのときの描写とこの設定との整合的解釈を考えるなんて無駄!!!」であったり(作者自身の認識とは独立して考察することはできないという前提をもっている)、反対に、「物語がこう展開したことに文句言う奴はこれこれの伏線をみてないのか」であったり(伏線と言ってもそれが展開に必然性をもたせるようなものではなく、いわば「匂わせ」程度のものであってもこうした主張があるから、結局作者の想定があったかなかったかを問題にする点で前者と同じ)の態度である。作者による「行政計画」としてしか作品を見ることができないのであれば、「メタい」視点のみを採用することに批評上のメリットはほとんどないのではないだろうか。しかし、上記の例は「メタい」視点に立ったからといって必ずしも生ずる態度ではなく、単に自身の採用する()内に示した前提の確からしさを疑問に付さないことと合わさって初めて生じるものであることに注意しなければならない。その点、自身のとっている前提が何であるかという「メタ」認知はなおざりにされているのかもしれない。

 以上、「メタい」ことのうすら寒さを説明したが、なぜこうも「メタ」が好まれるのかという疑問がある。価値相対主義がデフォルトとなったこの時代との同型性を嗅ぎ付けるのはいささか勇み足かもしれない。だが、価値相対主義もまた、「メタ倫理」としての地位を主張してきたひとつの立場であり、人々は評価の実践に参与する一方、評価の基準についての関心を強めているのではないだろうか。評価の基準をある評価実践において自分に有利なものに書き換える、または評価の基準を知ることで自身がその下で適切な評価をするというふるまいは、合理的である。だが、「何を評価の基準とすべきか」ということについても論争的である。「メタ」もまた、少なくとも「クール」な時代ではないということを忘れてしまっては、確からしくない前提に基づいた確からしくない基準により様々な対象を不当に評価することとなってしまいかねない。もちろん、このことは、私自身にもあてはまることなので、自戒も込めつつ、これを最終文とする。

【野次馬】知性と自由のツイートに関する駄文【ワイド】

1.目的
 Twitterにて、「自由な娯楽を嗜むには、一定以上の知性が必要で、そうでない人には自制が難しく作品に影響され自分勝手で情緒的な行動をとりやすくなってしまう」との言明(以下、「当該言明」という。)が、違法行為を表現に含む表現物に対する規制の必要性を認める旨の意見に伴ってなされた。
 本記事は、当該言明による表現規制の是非を論じるのではなく、当該言明の整合的な解釈の探求を試みるものである。

2.問題提起
 当該言明は、「自由な娯楽を嗜む」ために主体に求められる条件として、「一定以上の知性」を挙げている。いわば、娯楽の享有の当事者適格として知性を求めているといえよう。「そうでない人」とは、「一定以上の知性」を有さない主体であり、そのような主体にとっては「自制が難し」いものであること、また、作品(表現物)を鑑賞することで、「自分勝手で情緒的な行動をとりやすくなる」とのことである。
 反対解釈によって読み取れるのは、「知性」が、「自制」を容易にし、かつ、作品の鑑賞を経たのちに「自分勝手で情緒的な行動をと」ることを防止する機能を有するものとして観念されている、ということである。こうした機能が十全に発揮される主体のみが、「自由な娯楽を嗜む」こと、この文脈でいえば表現物たる作品の鑑賞が可能である、と。
 しかし、ここで知性の機能として想定されている諸要素は、作品の鑑賞という時間軸とは関わりがないか、あるとしても薄弱である。「自制が難し」いというのは、作品の鑑賞の有無とは関わりのない、「知性」のない者の恒常的な性質として観念されたものであるし、また、「自分勝手で情緒的な行動をと」りうるのは、「作品に影響され」た結果であるように表現され、それは作品の鑑賞の後に生じるものである。つまり、違法行為の表現を含む表現物を鑑賞すること自体は知性を有さない者にもできるが、元から「自制が難し」いような奴は、鑑賞後の行為によって周りの人間にメーワクをかけるだろうからダメ、という話(以下、「メーワクダメ絶対」という。)をしているのである。
 ここで注意しなければならないのは、「一定以上の知性」を有さない者についても、少なくとも「娯楽を嗜む」こと自体は可能であるとしている点である。では、「自由な」とは一体何を意味しているのか。

3.「自由な娯楽」とは
 「自由な娯楽を嗜む」という表現から、その「自由」の内容をいくつか想定できる。
 第一に、禁止されるべきとはいえない娯楽を「自由な娯楽」としている可能性が想定される。「一定以上の知性」がある者については禁止すべきでない、すなわち自由だが、「そうでない人」については禁止が及ぶ、ということを正当化するためにこそ、メーワクダメ絶対が打ち出されたと考えることができるからである。この場合、当該言明を抽象化すると、「XするにはYが必要である。Yを欠いたままXをすると、その後にZという不利益が生じるからである。」という適切な形式である。このような形式と解した場合、第二文は、第一文を根拠づけるものと解される。
 では、このような解釈にしたがった場合、より具体的には、何における自由がここでは問題とされているのか。結論を先取りすれば、これは娯楽の種類という客体の選択における自由が問題とされているのである。前述したように、当該言明は違法行為を表現に含む表現物に対する規制(表現内容規制)の文脈でなされたものであるから、「良い子がマネしてもよい」ような行為のみを表現に含む表現物については、「そうでない人」による鑑賞を許すものだと考えられる。
 したがって、当該言明をこの解釈を明示する形でリライトすると、次のようなものとなろう。すなわち、「いかなる行為をも表現に含む表現物を鑑賞することが許されるのは、一定以上の知性を有する主体のみである。一定以上の知性を欠く主体は、表現された行為の是非を弁識できず、鑑賞後、表現された行為を模倣するおそれがあるから、模倣してはならない行為を表現に含む表現物を鑑賞することは禁止されるべきである。」このようなパターナリスティックな考えは、典型的にはエログロの領域について年齢制限を設けてきた「エンタメ」(元ツイから引用)界では、たしかに一般的であろうし、未成年の喫煙を禁止する理路と実質的に変わりはない。被害者が自身であるか他者であるかは、自己決定権の援用可能性の点で異なりはするが、直感的な理解としては概ね同じといってよいだろう。
 第二に、第一の解釈における「自由」が、表現物の内容を問わず鑑賞できるという客体の選択における自由であったのに対し、主体における何らかの自由を意味するものであると解することも可能である。つまり、同種の娯楽を嗜むにしても、知性の有無によってその態様につき、知性のある者のほうがより自由である、という布置で自由を把握することもできる。具体的には、鑑賞において特定の視点に立つことを強制されない、という意味での自由といってよいだろう。たとえば、『キャプテンアメリカ シビルウォー』における、キャプテンアメリカに対する「君の瞳には緑が混じってる」というジモの台詞について、緑の目を嫉妬深さに結びつける英語圏の文化("green-eyed monster")を知っているか否かによって、とりうる解釈の幅は変化しうる(映画というメディアだから無理くりでもシェイクスピア引用しとけ的なところはありそうだが)。異文化の人々の視点に立つこと、ここでは知識の有無によってそれが可能か否かが分かれている。
 さて、自由が「鑑賞において特定の視点に立つことを強制されない」ことであるとしたが、その前提となる知性については、2.概要にて述べられた機能には還元できない、積極的な役割をここで与えていることに注意しなければならない。2.概要における知性の機能は、ここでの自由が問題としている、鑑賞時ピンポイントの時間軸については何も述べていないからである。自由の前提をなす知性の定義をここで明示しておかなければならない。この点について、いわゆる「リベラル・アーツ」の定義を参照してもよいと思われる。自由と知的要素を結びつける発想として、最も典型的だからである。とはいっても、巷には「私の考えた最強のリベラル・アーツ」で溢れかえっているから、ここではそれらの核を記述していると思われる、辞書の記述に頼ることにする。英語の辞書をいくつかひくと、概ね、特定の職業や専門分野に特化するのではなく、より一般的な知的能力を育む教育として定義されている(修辞学や天文学といった、具体的科目は本記事の関心上必ずしも重要ではない)。特定の視点から離脱しうる自由が、知性に依存するという観点からすると、知性の定義につき、世界像の把握において、現にとっている視点とは異なる視点を理解する能力としてよいと思われる。特定の職業や専門性と結びついた視点をとる前に、いかなる視点が存在しうるのか、それぞれの視点において世界はどう写るのかを理解する力を養うことが、「リベラル・アーツ」教育に期待されるものと理解すれば、辞書的意味と整合的かつ、知性の定義はその側面を強調したものだと考えられる。そうすると、自由は、知性によって比較可能となった複数の視点のなかから、いずれの視点をとるかを選択する自由として位置付けることができる。
 このように、主要な概念を定義してきたが、それでは当該言明はどのように解釈されるのか。知性が、多様な視点の存在・内容を理解する能力だとすれば、鑑賞においては、前述の例のように、知性によって異文化の視点からの解釈が可能となる。他方、「自制」を行わせ「自分勝手で情緒的な行動」を控えさせるのは、自身の行為によって影響を受ける他者の視点を理解し尊重することによってもたらされるのであって、これまた知性のはたらきであるということができる。すなわち、当該言明の前段と後段は、知性という親をもつ双子の関係にあるといえよう。例によってリライトするならば、「表現物の鑑賞において、特定の視点に立つことを強制されないためには、複数の他なる視点の存在を理解する知性が必要である。また、知性によって、他者の視点を理解し、尊重することで、鑑賞した表現物による影響による自分勝手で情緒的な行動はとりにくくなる。知性を欠く者は、特定の視点からの鑑賞を強いられ、かつ、鑑賞後に自分勝手で情緒的な行動をとりやすい。」
 しかし、このように解釈した場合、当該言明が、表現規制の必要性を説くものであることを説明できるかが問題になろう。さきほど、「知性という親をもつ双子の関係」としたが、実は、元ツイに挿入された「作品に影響され」という文言が、この双子の間に奇妙な関係をもたせている。すなわち、一応は独立したこの二つの要素が、作品の媒介によって、因果関係に立たされているのである。すなわち、「知性を欠く者は、鑑賞において特定の視点に縛られる。そうした鑑賞をした結果として、その後、表現に含まれたような自分勝手で情緒的な行動をとりやすくなる」という関係としている。さもなくば、双子はどちらも知性の存否によって発生させられる現象としているにもかかわらず、他方では作品さえなければ双子の一方は生じないということを述べていることになる。これを矛盾なく説明するためには、自由な鑑賞は作品を対象とする点で作品の存在を前提はするが、その表現内容や種類を問わず自由な鑑賞は可能であるとしつつ、鑑賞後の行為については、作品の表現内容や種類と知性の欠如の「合わせ技」の結果として「自分勝手で情緒的な行動をとりやすくなる」という理路を採らねばならない。つまり、後者について、知性の欠如によって、他者の視点の存在や内容を理解することを不可能にするから「自分勝手で情緒的な行動をとりやす」いということに加えて、作品の特定の表現内容(具体的には違法行為の表現)もまた同じ効果をもつ、という想定がなされていると解さざるを得ない。
 このような想定は、しかしながら、作品による影響を受けるのは鑑賞時であるということも合わせて考えると、さらなる補足を必要とする。つまり、特定の視点に縛られた状態での鑑賞によって、なぜ、いかにしてその後の違法行為等が惹起されるのかという問いに答えなければならない。そしてこの問いへの応答は、第一の解釈をとる際にも、作品が原因となって知性を欠く者による違法行為が発生するおそれがある、となぜいえるのか、というかたちでで求められることになる。以下では、主要概念がより明確に定義される第二の解釈に基づき、表現物による鑑賞後の行為への影響につき検討する。

4.表現物と視点との関係
 まず、表現物と視点との関係については、一般的に、表現物の性質それ自体が、とりうる視点をある程度制約する一方、視点に応じて表現のもつ意味が異なりうる、という相互規定的関係が想定されると思われる。たとえば、映画ならば、その制作において深く関連する文化がある場合には原則としてその文化の視点が支配的になりやすい一方で、必ずしも鑑賞者は、その文化に内在する価値判断を相対化できないわけではなく、場合によっては批判の対象とすることも可能である、というように。端的な例を出せば、漫画で「美しい」とされているキャラクターに対し、作品内で統一的に「美しい」とされることには異議を唱えることが不可能で、「そういうもの」として読まなければならない一方、自身の美的判断を作品に忠実に作り替える必要があるわけではない。あまつさえ、作品の批評において、作品内の美的基準を批判することもできる。また、教訓めいた台詞を、自身に対する教訓として受容するのか、それとも世迷い言として切り捨てるのか、はたまたそれは作品内やキャラクター間でのみ妥当する真理としてみるのかは視点に依存した処理である。
 さて、当該言明では、知性を欠くことの結果として特定の視点にしか立ち得ない者が、違法行為の表現を含む表現物を、そうした視点から鑑賞することによって、表現された違法行為又はそれに類する行為を実行する、ということが述べられていた。こうした鑑賞後の行為のあり方さえ規定する、「特定の視点」とは一体何を指すのか。おそらく、知性を欠くことにより縛り付けられる先である「特定の視点」とは、その主体にとって唯一とりうる視点で、比較対象をもたないようなものであろう。あるいは、「一定以上の知性」という程度の問題であることを窺わせる表現に鑑みると、異なる視点を理解するための一定以上の力があって初めて立ちうるようになる、いわばレベルアップによって解放されるような視点を持ち得ない主体のもつ視点の選択肢は、いずれであろうと鑑賞によってその後違法行為を実行させるようなものであるといえる。つまり、「違法行為を表現する表現物の鑑賞後に違法行為をしないような視点」は、知性の欠如した者には、または少なくともそのような者の一部には持ち得ない、ということを前提しているといえる。
 したがって、知性を欠き、「違法行為を表現する表現物の鑑賞後に違法行為をしないような視点」に立ち得ない者は、鑑賞後に違法行為をするから、鑑賞の余地さえ与えないよう表現規制をすべきだ、ということを当該言明が述べていることとなる。同語反復の響きがあるが、裏を返せば「違法行為を表現する表現物の鑑賞後に違法行為の実行を決定づける視点」の存在と内容が、鑑賞及び違法行為の実行に先立って特定でき、かつ、一定以上の知性がない限り当該視点にいわば縛り付けられることを示す限りにおいて、その謗りは免れよう。しかし、残念ながら、私はそのような特異な視点にアクセスできるだけの知性をもたない。したがって、このような視点の存在可能性及びその内容についてのより詳細な考察が必要であろう。卑近な例を考えれば、いわゆる「正義のヒーロー」による暴力を目撃したのち、暴力をふるう幼児の視点がそれに近いのだろうが、それはその視点における鑑賞によるのではなく、まさに知性の欠如ゆえに他者の視点を意識すらしないがための行動であろう。双子の間に成立するとしたはずの因果関係を、親と子の因果関係とすりかえているにすぎないように思われる。幼児の視点による表現物の鑑賞が、まさにその行為の原因であることを必ずしも意味しないからである。よってこの例は、不適切か、より詳細な説明を要すると思われる。

5.表現規制との関連における一応のコメント
 たしかに、第二の解釈にしたがったとき、表現物の鑑賞によるのか他者の視点への無理解によるのかを区別できず、かつ、他者への視点の無理解が根本の原因であるとしても表現された違法行為の模倣が現に存在するならば、「大本」となる知性の欠如の解決は無理にしても、暫定的に疑わしい表現物の鑑賞を制限するという方策はありうる。だが、仮に他者の視点への無理解と鑑賞による影響とが区別不能なほどの一体をなすとしても、違法行為の原因の「容疑者」として、他者の視点への無理解と不可分であるとした、違法行為の表現を含む表現物のみを単体で挙げることはもちろんのこと、それに基づきゾーニング等のより緩やかな規制ではなく表現自体を規制することには、未だハードルがあると言わざるを得ない。とりわけ、表現内容規制は、表現中立規制に比して厳格な審査に服すべきとの見解が憲法学説では有力であるし、仮に利益衡量論に沿った判断をするにしても、所論の違法行為の防止の必要性が、表現内容規制という強い規制を行うだけの正当化根拠とは判断されないであろう。
 ただし、表現による影響の存在の認定は、必ずしも実証的なデータにより示されるべきことを意味しない。実証的データは認定のための十分な根拠にはなりえようが、その入手は極めて困難であろうと思われる。違法行為を実行した者についてはともかく、「知性を欠く者」をいかなる数量的要素に還元すればよいのか(EQの値などを参照するのだろうか、そもそもEQを測定している者はごく一部にすぎないのではないか)、「表現による影響」を示すにしても、それをいかなるデータによって判断すべきか(たとえば本人の認識が必ずしも正しく因果関係を捉えているとは限らない)については論争的であろう。たとえ、表現内容規制を行っている国家と行っていない国家とで犯罪率の比較を行うにしても、その差異が果たして表現規制の有無によって生じたものかどうかというのは、統制困難な外部要因の作用もあり特定が困難であろうと思われる。

6.結びに代えて
 以上、当該言明についての整合的な解釈を試みるとともに、それぞれの解釈を採用することに伴って挙証責任を果たすべき事項を主に4と5とで指摘した。しかし、挙証責任の指摘は思考責任の転嫁ではない。本記事を書くにあたり、当該言明の内在的理解を追究する性質上、外部のテクストの参照は極めて限られたものに留まった。したがって、以上で触れたトピックにつき真剣に論じようとするならば、当然アクセスすべき学問領域にアクセスできていないことはここで明示しなければならない。
 また、本記事では二つの解釈を想定したが、この二つは必ずしも排他的ではない。主体における自由と客体についての自由とは両立しうるからである。さらに、このような主客の二項対立の下でも、本記事で扱った解釈は、それぞれの一例にすぎないうえに、このような二項対立では捉えられないが整合的な解釈も存在しうるかもしれない。ツイートという短い文章にある程度の独立性を認めて解釈をすることには、当然に不確定性がつきまとう。規則のパラドックスよろしく、解釈による意味付与には目が眩むほどのバリエーションが存在しうるのである。本記事で示した解釈も、そのなかで一応の整合性を保つことを必然性のように読み替えたにすぎない。
 なお、このことに関連して付言するならば、意味付与における不確定性は、ディスコミュニケーションの原因となりうるという側面をもつ一方で、世界が豊富な意味に開かれたものであること、固定化された意味を乗り越えうることを教える。たしかに、いかなる意味でもありうるということは、いかなる意味ももたないということと表裏一体である(「意味」はその他の可能性の否定のうえに成り立つものだから)。もし、意味というものに溺れそうならば、そこが本当は浅瀬であることを思い出すべきだし、世の無意味さという枯れた泉で立ちすくむならば、その泉は人工温泉であることを思い出し、蛇口を捻るべきである(本稿の第二の解釈は蛇口を捻りすぎているきらいがあるが)。
 おわり!!!