理系は人文学の夢を見るか?

はじめに

 本記事は、国大さんのnoteの記事「書籍「21世紀の道徳」について!前書きが熱い!!/人文系の存在意義を主張するはずだった文章」(以下、「当該note」という。)へのリアクション記事です。本記事では、当該noteにおいて参照される外部のテクストから独立したものとして当該noteを扱います。証拠的に参照される外部のテクストの真偽については真として扱い、かつその定位も適切なものとして扱いますし、本記事で言及する際には、当該noteの論旨との関係において諸々のテクストがいかなる役割を持ち得るかという観点からのみであることに注意していただきたいです。それに伴い、外部のテクストからの引用箇所も、当該noteからの引用と同等に扱います(以下、「」内は断りのない限り全て当該noteまたは当該noteの引用箇所からの引用)。というかいちいち書くのが面倒なだけなんですが。そういうところだぞ、と言われれば困っちゃう。

 本論に入る前に、まず、当該noteそれ自体の意義を確認しておく必要があるでしょう。当該noteは、ネットでしばしばナンチャッテ論争を招く、いわゆる対立煽りとは一線を画するものです。いかなる点で当該noteは対立煽りとは異なるのか。それは、二項対立の構図を採用して、二項間の差異を、差異が存在すること以外の理由なくして(少なくともある差異がなぜ二項の間の優劣になるのかという問いに明示的回答を与えることなく)それを優劣に対応させるようなことをしていないという点です。このことは、当該note自体が、「原理的に反論しえない人々より上位にいる」ことを意味し、仮に当該noteの結論に反対する者は、当該noteの論拠を斥け、または結論を否定するためのより強固な論拠を挙げて応じるべきであるということです。

 しかし、本記事はあくまでもリアクションであり、たとえば私自身がそのような応答をすることを目的にはしません。別の機会にします。ただし、当該noteの個々の主張を整理しつつ、反論する側にとっての主要なターゲットを抽出するという操作は行います。本腰を入れた反論をするだけの時間的余裕がなかったのでさわりだけとなることをご了承ください。

 

1.当該記事の主張の整理

 まず、当該noteにとっての批判対象となるのが、概念及び論理操作の曖昧性・多義性です。「(真逆の意味の)2通りに取れる文章なぞ学問ではあり得ない」との前提に立ち、多義的概念をもてあそぶ哲学者の主張等につき具体例を適示します。これらが、人文系の諸学問における、典型性のある事例であるとするならば、人文系の諸学問は、(少なくとも当該noteのいうところの)学問ではあり得ないような操作を行っており、学問として不適格であることが示唆されたといってよいでしょう。さらに、当該noteのいうところの「学問」につき、「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」である学問としては、「正誤の基準」を曖昧にし、「悩み続ける」ようなものは不適格であることも主張します。

 以上を合わせて、正誤の基準が曖昧であるうえに(基準の曖昧性)、その基準の下でなす操作も不適切または欺瞞的(操作の不適切性)であり、したがって学問として不適格との主張であると理解できます。

 当該noteの次なる批判対象は、人文系学問の学習の効果についてです。当該noteは、『21世紀の道徳』の記述にしたがい、「人文系は直接は役に立たない」との立場をとり、その後、人文系の間接的効果について疑義を呈します。すなわち、「民主主義を健全に機能させるために」必要な批判的思考能力と想像力は、人文系学問の学習によって習得されることは少なくとも実証されてはおらず、したがって確からしくない旨を主張します。こうした主張を間接的効果の未実証と呼びましょう。

 要するに、人文系学問は、基準の曖昧性、操作の不適切性より学問としての適格性が否定され、かつ間接的効果の未実証によってその学習による効果も確証されないがゆえに、直接に役に立つ理系分野に比して人文系学問の存在意義は疑わしいといえる、ということですね。

 

2.反論する側にとっての主要なターゲット

(1)個々の論拠

 以下、AからCにおいて個々の論拠につき、想定可能かつ一定以上の実行可能性がある反論を概観する。

A.基準の曖昧性について

 基準の曖昧性については、反論する側とすれば、正誤の基準を明示できれば話は早そうです。しかし、実際には、正誤の基準の明示は、いわば学問に対するメタ次元にあるものであり、よってその明示は困難であると思われます。

 ところが、なんと哲学の真理論には、真理に関する判断基準についての議論があります。もちろん、真理論内部でも「悩み続ける」側面がないではないわけで、対応説だの整合説だのプラグマティズムだのと、いわば群雄割拠なわけですが、それぞれの立場からすると、一意的に正誤(真偽)の基準は提供できるわけですね。

 とくに、タルスキの対応説的真理論においては、メタ言語による意味論的置換が可能な文に関して、対象言語相対的な真理値帰属が可能で、他の学問分野における正誤の基準と一致する必要がないような真理概念が想定可能です。たしかに、このような真理論は、タルスキ自身によって自然言語への適用が否定されてはいるものの、各学問領域におけるメタ言語による意味論的置換がなされうる限りは、適用可能と考えられるわけです。

 さて、これは一見すると、真理論が分裂しているという状況が存在する限り、正誤の基準の曖昧性という批判を解消し得ないように思われます。真理論内部の対立についてはメタ真理論が必要かもしれません。しかし、少なくとも「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」を各理論が提供していること、各理論内部においては「正誤の基準」が一意的に想定しうること、それがそれぞれの学問分野に適用可能なことはいえます。

 したがって、人文学内部でも、いずれかの真理論に応じた何らかの真理値帰属の基準が存在することを言えればよいわけですね。

B.操作の不適切性

 操作の不適切性については、当該noteがその具体例として挙げているものの証拠力を争うことが可能です。つまり、具体例の学問領域における典型性、または当該note中でも示唆されているように、具体例における操作の不適切性の存在について否定できれば、操作の不適切性は人文学一般の特徴にはあたらないといえるでしょう。

C.間接的効果の未実証

 間接的効果の未実証については、まず想定できるのは、当該noteの言う通り、「文系の想像力が高いことを実験で証明」することによる応答です。「実験」という実証手続に訴えることで可能となりうる反論ですが、その他の歴史上の展開と、それに人文系の学問が及ぼしたといえる効果として、たとえば「民主主義が健全に機能」しうるということを示すことも論証と合わせて行うことも想定できます。

 また、ここで存否の争われる間接的効果の内容として、ここでは想像力と批判的思考が学習者の身につくことが想定されていますが、その他の間接的効果により社会的有用性の存在を示すことも、それこそ間接的な反論たりうるでしょう。たとえば、概念工学などの意識的な取り組みの必要が唱えられているように、人文系の学問における概念が、社会の現状認識や改善策として「TCT創造性検査」における「実物の下敷き」的役割を果たす可能性も否定できません。

 なお、「TCT創造性検査」によって当該noteが主張しているのは、物体の用途に関する「想像力」であって、これは文系と理系との間の「想像力」の比較ではないし、また、その「想像力」と、民主主義の機能のための条件としての「想像力」と同視すべきとはいえない(同視してはならない、とまでは言っていません。少なくとも同視すべき根拠は示されておらず、実際当該noteでも直接的な証拠として扱っているわけではありません)ものであり、後者の意味での「想像力」を測定するための「測定手法を考えるだけ」のことはなされていないことに注意しなければなりません。

 ここでわざわざ注意を喚起したのは、Cの証拠付けが不十分だ、と主張するためではありません。Cはあくまでも、人文系の学習が、民主主義の十全たる機能の前提条件となる「想像力」と「批判的思考」を身に着けさせるという実証がない、という消極的な主張であり、真偽不明な状態にあるという程度の意味です。そしてこのことは、次の(2)B.真偽不明の処理方法において重要な確認といえます。

(2)全体の論旨への想定可能な反論

A.学問としての不適格性と社会的有用性

 当該noteは、基準の曖昧性と操作の不適切性により人文系の学問としての適格性を否定していますが、仮に学問ではなかったとしても、社会的有用性は肯定しえます。当該noteが人文系の「存在意義」や「役に立つ」か否かを問う以上、必ずしも学問といえるかどうかは重要ではありません(学問であることそのものに価値を見出すことも可能ですが)。言い換えれば、人文系の学問が基準の曖昧性をもち、さらに操作が不適切だったとして、それが学問としての適格性を否定することはあっても、社会的有用性は必ずしも否定されないということです。まさに当該noteで学問としての不適格なものの象徴として扱われる(一応学問領域とは区別された小説などの)「文学」作品は、読者が楽しく過ごすための有意義な体験を提供したり、あるいは経済活動の一環としてなされたりすることで、何らかの意味で社会の役に立っているといえるでしょう。

 ......まあ、こんな立論をするのは僕だけかもしれませんし、その他の具体例を出すのはなんとなく反発を招きそうなのでやめておきます。

B.真偽不明の処理方法

(a)総論

 理論間・命題間の優劣という意味での真偽不明の状態が生じたとき、我々はいかなる処理が可能だろうか。考えられるのは次の二つの方法です。第一に、真偽不明は真偽不明のまま、「悩み続ける」こと。第二に、一方を決断または規約によって選択し、それを真と仮定して実践を行うこと。

 さて、ここで「正誤の基準」問題とも関連しますが、論争が存在すること、理論間で決着がつかないことは、直ちに第一の方法を採用していることを意味しません。もちろん、本来真偽不明の事態でないのにもかかわらず、あたかも真偽不明であるかのようにふるまう者は、「知的誠実さ」に欠けるとして非難されてよいですが、目下検討する事態とは異なることに注意してください。

 (1)Aで、理論間の対立の存在と、各理論内部での「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」が提供されるということは述べました。ここでは、ある理論を選択すれば、その理論内部での正誤は判断できるわけですが、その選択は、理論間の優劣の考慮によっては必ずしも結論されないものである事態を想定します。

 このとき、第二の方法がとられているからこそ、理論間の対立が存在するわけです。「悩み続ける」者は、他の「悩み続ける」者と対立し得ません。何を真と考えるか定かでない者は他者に主張するところの真なる言明にあたるものを持たないからです。理論間の対立を、真偽不明と同視することは、各理論内部での結論の存在を見落とさせるおそれがありますが、「哲学上の未解決問題」もまた、必ずしも「正解を出」さない理論間の対立とはいえません。

 実際、反証可能性によって特徴づけられる科学分野について、反証可能性という概念自体が、存在者としての真理ではなく、認識論的な真理観を前提しないと理解不可能なものでしょう。ある時点で有力とされる理論は、他の理論との対立をいわば運命づけられており、そのような対立が存在し得るにもかかわらず、我々はそのときどきに有力な理論を暫定的に受容しているわけです。このように、ある理論の内部的にしか通用しないであろう結論を我々は「正解」として扱っているのです。

 このとき、真理としての「正解」は多元的に存在しうることになってしまいますが、このことは、学問は認識の手続であって、存在としての真理が唯一であるかもしれない一方で、認識としての真理は学問や理論に相対的に与えられるということの帰結といえます。さらに、そのような意味で相対的な真理を選択することを、我々は通常行っています。神はサイコロを振らなくても我々はサイコロを振っているのです。

 以上で何が言いたいのかというと、認識論的真理は、存在論的真理からは独立して存在しているということです。学問における真理は認識的なそれであり、たしかに学問において明確に否定された命題が存在論的真理である可能性は低いと考えざるを得ないでしょう。しかし、証明がなされていない命題については、存在論的真理と一致する可能性はありうるし、少なくとも学問的には、その命題が反証可能性をもつ場合、偽とするためには、反証が必要であるということです。

(b)各論

 当該noteは、『①文系と理系との比較において、直接的効果については理系には存在し、文系には存在しない。また、②間接的効果については両者に差異があるという実証がなされておらず、優劣については真偽不明。③よって直接的効果の分、理系が優越する。また、④文系の存在意義はない[次の加筆部分を要参照]。』(省三によるパラフレーズ)と述べており、あくまでも比較の観点から、劣位であることを「存在意義」の不存在と言い換えているとも考えられます(③⇔④)。この換言において前者と後者とが等価であるとされるならば説明が必要と思われるが、いずれにせよ問題点があることは指摘しておきます。

 ★[ご本人から幸いにもご指摘いただいた点について、訂正と弁明!

 まず、当該noteは文系の「存在意義」につき、all or nothingの観点からの言及をしているとは必ずしもいえません。にもかかわらず、上記④は、この観点からの主張として当該noteの趣旨を定位していると読むべき文であり、ゆえにパラフレーズとして不適切でした。大変失礼いたしました。

 さて、なぜ④のような文を書いたのか。この加筆部分の以下では、これについて説明しようと思います。

 当該noteの間接的効果の未実証の文脈においてなされるのは『人文系学問の意義は想像力等の増進だ』(以下、「当該命題」という。これは引用ではない)という『21世紀の道徳』における主張への批判です。その批判の方法は次のようになされます。主要なものとして、それを裏付ける実証がなされていないことの指摘がありますが、次に、「TCT創造性検査」による、「疎外感と創造性の相関さえ間違え」、かつ当該命題を尚『なんとなく』支持するような仮想敵に対し、そのような者であっても「人文系と創造性の相関がプラスだと確信でき」ないだろうとの(間接的でありまた予備的な)応答をしています。

 仮想敵への応答は、その性質上属人論法チックではありますが、いずれにせよ、以上の方法によって結論できるのは、当該命題は少なくとも現時点では実証的基礎を有さないということですね。実験によって示せと当該noteも述べていることと整合的です。

 このことは──できるだけ他の部分との重複を避けるべきとは思いながら言いますが──当該命題が、その否定命題との関係において、劣後する論拠しか有さないことを直ちには意味しません。それゆえ、結局は、個別の学問領域の者も巻き込んで、出てくる確証と反証を待つしかないわけですが、ここで当該命題の否定命題が真である、とも必ずしもいえないことに注意する必要があるわけですね((2)B真偽不明の処理方法参照)。

 したがって、当該noteのこの時点では、当該命題を巡る真偽不明の状態にあるといえるでしょう。『21世紀の道徳』の示す文系の「存在意義」の論拠を検討すると、必ずしもそれは成立しているわけではないのではないか?という健全な懐疑ですが、前述したように、ある命題の論拠の不在は必ずしもその命題の否定命題を正当化しませんから、いわば『フリダシにもどる』的な真偽不明なわけですね。

 さて、これは非常に興味深い事態です。というのも、『21世紀の道徳』を読む以前の「文系と理系に同程度の存在意義がある」(これは、『文系には存在意義がある』、『理系には存在意義がある』、『文系と理系の存在意義は同等のものである』の複合命題です)という信念は、主観的には真偽不明にあり、そこにおけるある種の決断または規約によるものなわけです。他方で、当該noteにおいて、『21世紀の道徳』の挙げる文系の存在意義についての議論につき検討を加え、結果としてその議論の論拠の不足により、その信念の対象たる命題につき、真偽不明の状態であることが一定程度確信された、と。

 しかしながら、読書のbefore/afterでの差異が生じています。これをどう説明するのか。それは、真偽不明の処理において採用される方法の差異に端を発すると思われます。読後に採用された方法として想定できるのは、次の二つでしょう。一つは、読前は真偽不明の際には、「同程度」とする規約ないし決断を採用していたのに対し、読後は真偽不明の処理方法のひとつである「悩み続ける」ことを選択し、その意味で「文系の存在意義を疑うようになった」というもの。もう一つは、読前は一つ目と同じだとして、読後には規約または決断の結果として、「文系と理系には同程度の存在意義は」ないという意味で「文系の存在意義を疑うようになった」というもの。

 本記事を初め書き上げた時点で、このうちのいずれであるのかを僕は確定できず、結果として混同してしまいました。失礼しました。

 以下は追加的なコメントとなります。ついでだから書いとけ的な。

 ※なお、厄介なのが、文理の比較の観点から、文系の間接的効果を評価しなければならないということですね。単に文系(理系)にも意義がある、というだけではなく、その意義が文理の優劣にどう影響するのか、という点も考慮しなければならないことになります。意義の内容が明らかにならないとできない議論なので、現時点の僕にはできなかったし今もできないわけですが。

 さらに、果たして比較が必要なのか?という点もあるわけです。なぜならば、仮に理系が文系に優越するにしても、文系の「存在意義」は肯定されうるからです。「存在意義」につき、一定の観点からの査定がなされる場合、ある閾値さえ満たせば肯定されるとき、必ずしも比較で劣ったからといって、その閾値を満たしてさえいれば十分なわけです。

 当該noteでは、社会の役に立つかという観点から議論が進められていますから、よって、その尺度において、一定以上を文系が得点すればよいのであって、比較は必ずしも要請されないでしょう。閾値がまさに理系のものと一致する場合には、理系との比較が極めて重要な意義をもつわけですが。


長文追記以上。]

 ①から④までのそれぞれの真偽を問うことも可能ですが、ここではとくに②が問題となります。②は、実証の不存在から『真偽不明』としていますが、これは『文理の優劣関係は分からない』という意味であって、必ずしも『差異がない』ということを意味しません。当該noteは、同程度であるとの推定につき自覚的ですが、その推定のための十分な根拠があるとはいえないでしょう(これは(1)Cの論点と重複します)。そもそも『真偽不明』であるか否かについても争いはありうるでしょう(「『真偽不明』ではないのにそのようにふるまっているのではないか?という)が、仮に『真偽不明』であるとしても、優劣関係を不等号、同等であることを等号で表すならば、文=理、文>理、文<理の三つの可能性があるわけです。このとき、文=理を主張する者は、文>理でもなければ、理>文でもないということを主張しています。たとえば、三つの定数x,y,zが、x>y、z>yを満たすとき、xとzとの大小関係は分からないのであって、x=zとするのは端的に誤りなように、文理の大小関係についての論争の存在は同等扱いを漁夫の利的に正当化することはありません。

 よって、このとき、(a)総論で述べたように、規約または決断による選択によって文=理を導いているわけですが、[加筆:こうした選択の論拠もまた反論のターゲットになりえ、同等のものとして扱う論拠として、]『同じ人間である以上、能力に差異が生じると考えるほうがどうかしている』だとか応答もできるでしょう。しかし、そうだとすると、学習対象を問わず、また、その他あらゆる情報不足の状態において、何らかの優劣を問う際には、常に同じ程度であると判断することになり、実践的に不適切でしょう。さらに、まさに能力の同等性こそが実証の対象ではないのかという問いも惹起するでしょう。下敷きを与えられれば用途に関する創造性に差異が生じるのに、どうして様々な問題につき、或る学固有の適用可能な概念が存在するとき、それを知識として有する者とそうでない者との間に差異が生じないのか(この前段と後段とが果たしてパラレルか否かは、(1)Cの「TCT創造性実験」の「想像力」と「民主主義」のための「想像力」との区別の必要の存否と同様に検討が必要です)。

 「文系は「箱の外」のことを考えるのが得意だ。だから想像力がある」と「理系は物事を分類し、区分けし、それぞれのパラメータを操作することに長けている。ゆえにありうるすべてのパターンを網羅する能力が高く、箱の中を網羅できる想像力がある」との対比によってなされているのは、「箱の外」と「箱の中」におけるそれぞれの得意なこと(と主張されうるもの)の確認であって、それが優劣(同列含む)にどう影響するのかについては必ずしも明確な回答があるとはいえません。相補性を読み取ることもできますが、優劣をつけるための観点からは、いずれの得意分野についてもその記述が正しいとしても、結局「箱の外」と「箱の中」とでいずれで活躍するのが、より優れているのか、という問題にその決着を先送りしたにすぎません。

 さらに、この対比において、主張が存在する(しうる)ことと、それが手続によって正当化されうること(認識論的真理であること)との区別は必ずしもなされていないように思われます(個人的には理系の得意分野の記述のほうがより説得力があるとは思いましたが。)[以下は加筆ですが、(理系のほうがむしろ「箱の外」もより上手く考えうるという主張の可能性も説得的です。「箱」の内外いずれも「文≦理」ということであれば、いずれについても「文>理」を否定し、自らの結論の論拠を挙げればよいわけですね。反対に文系擁護のためにはそれを肯定するための挙証・反証をすることになりますね)。しかし、いずれにせよそれぞれの論拠につき挙証・反証のラリーによりその確からしさを比較する必要があることに変わりはありません。]

おわりに

 真理論と真偽不明とについては、若干「文系」に肩入れしすぎたかもしれませんが、それでもなお議論のほとんどを留保したつもりです。よって、『想定可能な反論』として挙げたものは、いずれも証拠不足であろうとは思われます。これは専ら僕の力不足によるものです。私自身の反論として提示しなかったのは、あくまでも人文系一般のお話であり、私が個々の領域について明るくないこと、また、前述のようにリアクションであって『反論』や『論争』をする意図がないこと(もちろん、ご批判は私に対するものとして拝受いたしますが)によります。私ができない、個々の学問領域の専門家や学生等による実際的反論の道しるべにもなるよう考えたため、冗長となった箇所や反対に説明不足のところもあるとは思いますが、ご覧くださってありがとうございました。

 国大さんのご努力と、お声かけくださったことに敬意と感謝を表するつもりで、素描ではありますができるだけ強い藁人形の素材を作りました。多少なりとも面白がっていただれば幸いです。末筆にはなりますが、アドカレで面白い記事をありがとうございました!!!