「論より証拠」という論

 タイトルを見て、「あぁ、お前のTwitterアカウントで何度かした話だろ」と思われる方もいらっしゃるだろう。実際、重複するところがほとんどである。それゆえ、「知ってるよ」という方は読み飛ばしていただいてかまわない。要するに、「論より証拠」における「証拠」もまた「論」ありきではじめて証拠たりうるという話である。★マーク以降で、各論的なお話をするのでよければそこでまたお会いしましょう。
 「論より証拠」との表現は、相異なる複数の主張・論の対立とその解決(解消)の文脈で使用される。主張がいかに論理的に筋が通っていようが、現実の事実の存否とは矛盾する主張は誤りだとわかる、という趣旨の慣用表現である。
 たとえば、「雪山山頂のある小屋に現在人が存在するか」ということについて、A、Bが対立しているとしよう。Aは、「小屋の扉に向かう人の足跡が雪に残っている。雪はさきほどからコンコンと降り続いているから、足跡がついて時間が経っていないことがわかる。よって、ついさきほど扉まで歩いていった人がいるはずだ。さらに、引き返した足跡がないから、その後出ていないと考えられる。したがって、現在、あの小屋には人がいる。」と主張する。これに対しBは、「あの小屋の窓がみえるかい。窓を見るに、あの小屋は明かりがついていない。雪明かりがあるとはいえ、小屋のなか人が過ごすには暗すぎるだろう。人がいるなら、電灯がついているはずだ。ところが、現実はご覧のとおり。その他にも煙突から煙が出ていないこと等、人がいるならきっと起こるであろう出来事が起こっていない。したがって、人はいない。」と主張している。そしてA・Bの二者は、たとえば「後ろ向きで小屋から出てきた足跡を、小屋に入った足跡と勘違いしてるんじゃないか?」だとか「小屋に入ってすぐならまだ明かりや暖房を使っていないのは不自然ではないだろう」だとかの応酬が始まった(多少Bが劣勢に思われるが)。こんなとき、適用されるのが「論より証拠」という考え方であろう。つまり、小屋に行って中に人がいるかどうかを確かめれば良いのだ。
 さて、小屋に行って確認したところ、中はガランドウであった。このとき、Aは、その主張の結論において誤っていたこととなる。「小屋に現在人がいる」は「小屋に現在人はいない」と矛盾するからである。しかし、それではAは、その主張のどこに間違いがあったと考えるべきなのだろうか。これを明らかにするには、Aが誤った原因が何であるのかを分析する必要がある。
 たとえば、小屋には実は、議論時には死角にあった裏口があると仮定しよう。小屋に居た人間がいたとすると、その裏口から出ていった可能性がある。その人間が、「その後出ていない」というAの判断とは異なり、裏口から出ていったのが真相であれば、この箇所につきAは情報不足によって判断を誤ったことになる。さて、小屋に着いたAとBが、裏口を発見し、そこから山を下る(小屋に向かうものと同じ大きさの)足跡が続いているのを目撃した。そして以上の事実から、「真相」に近いストーリーを推測したとすると、たしかにAは「その後出ていない」の箇所の誤りを認めることになるだろう。だが、Aは以上の情報から、必ずしも自らの誤りを結論するとは限らない。たとえば、小屋に向かってAとBが確認のために移動している間に、山小屋の人間が出ていった可能性を考慮し、議論でいうところの「現在」という時点には、やはり山小屋に人間が居たのだと主張することも可能だろう。ある時点t1に人が存在しないことと、他の時点t2でのそれとが同じであるといえるか否か、という問題になりうるのである。
 この「時差」のトリックが気にくわない方もいらっしゃるだろうから、別の仮定をしてみよう。AとBが瞬間移動して小屋のなかに入ったとする(なお、その世界で瞬間移動できるのはこの二人であるとする)。さきほどは裏口から山を下る足跡が運良く発見できた。しかし、その足跡が発見できないとき、AとBはいかなるストーリーを推測するのだろうか。小屋に入った足跡の主は存在するのだから、どこかから出ていっていなければならない。そして、目下出口として有力なのは裏口である。Aによる「その後出ていない」というのが誤りであったから結論においても誤っているのだとするためには、出ていった足跡は存在したが消えたという線や、出ていったがそもそも足跡が存在しなかったという線を主張することになる。前者だと、たとえば裏口のある面が降雪がより激しいためにこちらの足跡だけが消えたのだという説明がなされるであろう。また、後者だと、煙突と木を結びつける縄をつたって出ていっただとか、小屋のなかで靴に大きな板をはりつけ、雪にかかる圧力を小さくしただとか、足跡をつけずに済むような説明がされるだろう。後者の場合、必ずしも裏口が存在しなくとも、足跡の不在による「その後出ていない」とのAの判断の誤りを指摘しうる。裏口があったからといってそこから出たとは限らないが、足跡を残さない方法があり、それがなされたならば、表口から出ていようが同じである。
 しかし、しかしである。そもそも、「小屋に向かう足跡」のほうの存在がなかったという可能性もある。Aは、「小屋の扉に向かう人の足跡」から、人が小屋へ入るために移動したことを読み取った。だが、AとBが、山小屋の確認の前段階、応酬をはじめたときに、その一部として、小屋の扉まで続く足跡につき、「後ろ向きで小屋から出てきた足跡」かもしれないということが述べられていた。たしかに、後ろ向きで歩き続けるという想定は、通常人がそれを行うというものであるとすると奇妙ではある。しかし、小屋に以前から住んでいて、ある日山を下ることにした山小屋の住人が、誰かをひっかけようとしてそれをした(実際、筆者は雪の積もった日に、壁から出てきた者がいると錯覚する者あるを信じ、後ろ向きで壁まで行くことがある。その後自分の足跡を踏みつつどこかに行く)のであったり、あるいは、滑落しないよう小屋に結びつけた縄を握りながら後ろ向きで歩いていたとするならば、爪先のあるほうが進行方向であるとは必ずしもいえない。以上の説明だと、爪先の示す方向はむしろ逆である。そうだとすると、Aは主張における出発点からして誤っていたということになる。
 以上が、Aの主張における誤謬がどこにありうるのかという分析である。結論については、その結論たる命題である「小屋に現在人がいる」は偽だとして、それまでのAの主張の誤りを指摘するためには、Aの主張を構成する、事実の存否の認識(例としては、裏口の存在)はもちろんのこと、事実の存否を根拠とする推測(例としては、表口の足跡の存在から、その足跡の主が小屋に入ったことや、出たならばそれとは反対方向の足跡があるはずだということの推測)をその対象とする必要がある。後者については、Aの認識する、ある事実の存否が、Aによる推測よりも、より蓋然性の高い推測によって別の事実の存否を示しうることを指摘するということになるだろう(それが成功するかどうかはさておき)。
 このように、所与の事実の存否から一体何がいえるのかというのは論争的でありうる。言い換えれば、所与の事実の存否が示すものが何であるかは、必ずしもアプリオリに定まっているとはいえない。足跡の爪先の方向が進行方向であるか否かさえ、状況によっては論争的なのである。たしかに、Aの誤謬の要因を探っているなかで取り上げた各々のストーリーとしての仮説は、はじめAとBが主張していた仮説に比べると劣ることは認めなければならない。奇妙であったり、極端であったりする存在者を想定する仮説は、少なくとも科学的な仮説としては、そうでない仮説に劣後するものとみなされる(もしかすると現実にそのような存在者がおり、その存在者を想定する仮説が真実と合致することもあろう。だが、少なくともそうした存在者が実在すること、ある説明にその者が関与することの蓋然性があることを別途説明できなければならない。さもなくば、「科学的」な見地からすると劣後するとみなさざるをえないだろう)。しかし、本記事の主眼は、仮説に優劣をつけることでなく、「論より証拠」について分析することだから、「証拠」となる事実と、それを説明、性格付けする主張である「論」との、次のような関係の理解に資すればよい。すなわち、何が「証拠」となるかは、論に先行して同定できず、ある事実が特定の論を確証/反証するかは、その論に相関的である。何のことはない。何を言っているかに応じて、それを覆すべき必要性を認めさせるべく確認されなければならない事実の存否は異なるという話だ。
 なお、以上の例は、特定の事実の存否を争点とする相異なる主張であり、いかなる仮説をとろうと、まさにその事実の存否が確認されたなら、少なくとも結論について誤りを認めなければならない(同時に、仮説は仮説として妥当であったと言うことは許されよう)。
 しかし、争点となる「まさにその事実」自体を直接には確認できない場合(例として、前述の「時差」のトリック)や、必ずしも観測可能な個々の事実ではなく、観測可能な事実群に対する抽象的・評価的な側面についての争いがある場合(例として、ある社会に女性差別があるか否か)には、事情が異なる。すなわち、ある事実の存否を以て直ちに主張の成否を断定することができるとは限らない。
 主張と整合的に解釈することが可能である限り、その事実の存在は主張の誤りに結びつかない(惑星の運動につき、天動説もまた一定以上に整合的な説明を与えていた)。直接のアクセスが可能でないような事実の存否が問題となるとき、言い換えれば確認できる事実の存否からの推測や評価に頼らざるを得ないとき、その推測や評価の「質」が問われるのである。確認できるその事実が、なぜある論にとって確証となり、または反証となるのか。このことを十分に説明できない限りは、事実についての摘示は何ら意味を持たない。証拠は論あって初めて証拠たりうるのである。「論より証拠だ!」というとき、証拠の証拠性を支える論の内容が、一見して明らかで、かつそれなりに説得力を感じる場合(正しいかどうかはわからない)に我々はほぼ無意識にそれを受け入れているにすぎない。
 以上、「論より証拠」という慣用表現が適用されるケースと、その注意点についてみてきた。改めて要約するならば、論同士の争点となる事実そのものにアクセス可能であるときはアクセスすればよい。ただし、当該事実の存否にアクセスできない場合には、いかなる事実の存否が論にとっての確証/反証となるのかは、蓋然性による推測や評価に依存する。命題と矛盾するのは命題だけであり、事実は命題とも事実とも矛盾しえないのである。

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 さてやって参りました。とはいうものの、特別新しいことを言うつもりはない。以上の話から、Twitterにおける「反証」について概観しておこうというだけである。
 何らかの主張に対して、リプライや引用RTのかたちで、「◯◯(という存在する事実)」だとか、特定の事実に言及するものがある。それが、◯◯という事実が存在するといことと矛盾するのは、当該事実が存在しないということだけである。たしかに、◯◯という事実が存在することが一見して明らかであり、かつ、元の主張がその存在を否定しているときに限り、語用論的分析として「反証」として理解可能ではある。しかし、その事実(が存在するということ)から一体いかなる命題を推測し、よって元の主張を構成するいずれかの命題とそれとが矛盾すると言いたいのかが、まったく分からないケースがしばしば見受けられる。
 また、「経験」という言葉によって、何らかの正当化をはかろうとするものもあるが、経験は、一般に、感覚によって捉えてきた事実の存否(とくに事実の存在)の束を含む概念であるが、こうした言葉によって、いかなる事実の存否の束についての言及であるのかわからず、よってその束がいかなる命題を支持しうるのかも第三者にはわからないようにするものもある。
 これに加えて、「命題の事実化」とも呼ぶべき事態も生じている。本人のなかでは、言及された命題X1から、他の命題X2が真であることが推測され、最終的に導かれる命題Xn(nは2以上の整数)は、批判対象である主張を構成する命題と矛盾する、ということなのだろう。しかし、その理路が明らかでなかったり、再構成を試みても、その「推測」が無茶苦茶だったりするのである。たとえば、『鬼滅の刃』の作者が女性であることが、一体どうして『鬼滅の刃』において女性キャラクターが「見られる性」として描写されないことに結びつくのか(その再構成はTwitterにおいて試みた。端的にいえば、人間ならば自らの属性に不利なことはしないし、かつ、作品は作者の意識のみが排他的に規定し、かつ、作者の意識はジェンダー規範からまったく自由であるとしたとき、『鬼滅の刃』の作者が女性であることは、女性キャラクターが「見られる性」として描写されないということと結びつく。または、もしかすると女性であることが本質的に何らかの性質をもつことであると想定しているのかもしれない)。
 以上、Twitterにおける、ある種危険な「論より証拠」の例であった。
 最後に、タイトルは「「論より証拠」という論」であるが、仮に「論より証拠」を、(「より」という比較の表現は比較対象間のトレードオフを意味しないから、論も用いることは甘受するにしても)「証拠」によって示すことは可能だろうかという疑問をここに記しておく。