「メタい」のうすら寒さ

 以下は、完全に趣味で書くだけなので個人的かつ素朴にすぎる雑感にすぎないことをおことわりしてから記事を書き始める。
 漫画等においては、読者の属する世界とは異なる世界が舞台となることが多い。たまたま読者の属する世界に極めて似た世界で物語が展開されようと、読者はその世界での爆発事件が、自分のリビングにあるテレビからニュース速報で流れてくることを想定したりはしない。「我々と彼らとでは属する世界が異なるのだ」という断絶の意識が、少なくとも「我々」読者の世界認識である。
 ところが、漫画等の登場人物が、「彼ら」の世界ではなく「我々」の世界(か、少なくとも「彼ら」の世界とは異なり、かつそれは「我々の世界」との共通点をもつもの)について言及する、または「我々の世界」についての知識を前提する発言をすることがある。それは、「二次元」の世界に生きたいと願う者がしばしば口にする、「自分を微分したい」というのとは逆に、彼らの世界から少なくとも一部の登場人物が「積分」されているような錯覚を抱かせる。「この本を読んでいる君!」というデッドプールの姿を思い浮かべていただきたい。または、アニメの場合だと、同じ人物Xが声優を勤める、異なる作品に属する複数の登場人物について「Xが声あててる同士」などの台詞。
 こうした、彼岸と此岸との断絶を無化する描写につき、読者の一部は「メタい」などと評価し、概ね好意的な反応を示すことが多い。


 これがうすら寒いのである。「メタい」手法は、彼らの世界の固有性を犠牲にする、「作者」の自己の存在主張の、使い古された手法の一つにすぎない。彼らの世界の固有性を保護する外縁は、その手法により脆くも崩れ去りうるのである。「メタい」換言をすると、「メタ」い発言をするキャラクターに対する作者の「入れ知恵」が透けて見える。そのとき、キャラクターはもちろん、彼らの世界は、自律した世界ではなく、作者のおもちゃ箱か、よくできたレゴワールドにすぎなくなってしまう。我々の世界の下位概念、N分の1スケール(Nは十分に大きい数)である以上、我々の世界からの干渉を常に作品の裏側に持たざるを得ない。つまり、彼らの世界における「メタい」言動は、我々の世界の植民地となる投降の白旗なのである。そこでの新たな指導者は作者。読者は作者による行政を監視する立場である。
 もちろん、「メタい」言動と彼らの世界の自律性は必然的にトレードオフの関係に立つわけではない。「バランスの問題」と言ってしまってよかろうとは思うし、作品のなかで、作劇上の必然性を以て「メタい」言動を効果的に用いることには反対しない。しかし、作者による「メタい」手法の自己目的化や、または読者による「メタい」ものイコール高尚なもの、といった想定には断固反対する。たとえば、作者が作品を通じて何らかの主張を行おうとしているとき、論説文と物語とを区別するものは、そのテクストにおける話者が、我々の世界において語っているか、それとも彼らの世界において語っているかではないか(まあそれを区別するのは何か、という問いがありうるが、今回は留保する)。後者が固有性のある彼らの世界において語っている限りで、我々の世界におけるその主張の真偽とは独立して、彼らの世界における真偽は別様でありうる。物語の展開する彼らの世界それ自体をまずは直視しなければならない。そのうえで、しかし、その主張を「我々の世界についての主張でもありうる」とすることは可能である。ただし、あくまでも、我々の世界に存在する読者として彼らの世界の物語から解釈として汲み出すことであって、彼らの世界の誰かが私たちに言っていたからなどではない。仮に物語の作者が、「メタい」手法によって、彼らの世界である自身の作品の登場人物をしてまさに我々の世界についての主張を語らしめるならば、作者であろうが、彼らの世界に対する侵略行為にほかならない。物語の皮を被ることによって論説文ならば負うべき責任を回避するものにも思われる。
 このように、「メタい」手法と彼らの世界の自律性とは緊張関係にあるが、以上は作者による「メタい」手法の危険性である。しかし、最近では、読者のほうが「メタい」視点しかとれなくなっているように思わせるようなこともある。たとえば、「作者は、このときには後から出てくる設定を考えてなかった!だからこのときの描写とこの設定との整合的解釈を考えるなんて無駄!!!」であったり(作者自身の認識とは独立して考察することはできないという前提をもっている)、反対に、「物語がこう展開したことに文句言う奴はこれこれの伏線をみてないのか」であったり(伏線と言ってもそれが展開に必然性をもたせるようなものではなく、いわば「匂わせ」程度のものであってもこうした主張があるから、結局作者の想定があったかなかったかを問題にする点で前者と同じ)の態度である。作者による「行政計画」としてしか作品を見ることができないのであれば、「メタい」視点のみを採用することに批評上のメリットはほとんどないのではないだろうか。しかし、上記の例は「メタい」視点に立ったからといって必ずしも生ずる態度ではなく、単に自身の採用する()内に示した前提の確からしさを疑問に付さないことと合わさって初めて生じるものであることに注意しなければならない。その点、自身のとっている前提が何であるかという「メタ」認知はなおざりにされているのかもしれない。

 以上、「メタい」ことのうすら寒さを説明したが、なぜこうも「メタ」が好まれるのかという疑問がある。価値相対主義がデフォルトとなったこの時代との同型性を嗅ぎ付けるのはいささか勇み足かもしれない。だが、価値相対主義もまた、「メタ倫理」としての地位を主張してきたひとつの立場であり、人々は評価の実践に参与する一方、評価の基準についての関心を強めているのではないだろうか。評価の基準をある評価実践において自分に有利なものに書き換える、または評価の基準を知ることで自身がその下で適切な評価をするというふるまいは、合理的である。だが、「何を評価の基準とすべきか」ということについても論争的である。「メタ」もまた、少なくとも「クール」な時代ではないということを忘れてしまっては、確からしくない前提に基づいた確からしくない基準により様々な対象を不当に評価することとなってしまいかねない。もちろん、このことは、私自身にもあてはまることなので、自戒も込めつつ、これを最終文とする。