【野次馬】知性と自由のツイートに関する駄文【ワイド】

1.目的
 Twitterにて、「自由な娯楽を嗜むには、一定以上の知性が必要で、そうでない人には自制が難しく作品に影響され自分勝手で情緒的な行動をとりやすくなってしまう」との言明(以下、「当該言明」という。)が、違法行為を表現に含む表現物に対する規制の必要性を認める旨の意見に伴ってなされた。
 本記事は、当該言明による表現規制の是非を論じるのではなく、当該言明の整合的な解釈の探求を試みるものである。

2.問題提起
 当該言明は、「自由な娯楽を嗜む」ために主体に求められる条件として、「一定以上の知性」を挙げている。いわば、娯楽の享有の当事者適格として知性を求めているといえよう。「そうでない人」とは、「一定以上の知性」を有さない主体であり、そのような主体にとっては「自制が難し」いものであること、また、作品(表現物)を鑑賞することで、「自分勝手で情緒的な行動をとりやすくなる」とのことである。
 反対解釈によって読み取れるのは、「知性」が、「自制」を容易にし、かつ、作品の鑑賞を経たのちに「自分勝手で情緒的な行動をと」ることを防止する機能を有するものとして観念されている、ということである。こうした機能が十全に発揮される主体のみが、「自由な娯楽を嗜む」こと、この文脈でいえば表現物たる作品の鑑賞が可能である、と。
 しかし、ここで知性の機能として想定されている諸要素は、作品の鑑賞という時間軸とは関わりがないか、あるとしても薄弱である。「自制が難し」いというのは、作品の鑑賞の有無とは関わりのない、「知性」のない者の恒常的な性質として観念されたものであるし、また、「自分勝手で情緒的な行動をと」りうるのは、「作品に影響され」た結果であるように表現され、それは作品の鑑賞の後に生じるものである。つまり、違法行為の表現を含む表現物を鑑賞すること自体は知性を有さない者にもできるが、元から「自制が難し」いような奴は、鑑賞後の行為によって周りの人間にメーワクをかけるだろうからダメ、という話(以下、「メーワクダメ絶対」という。)をしているのである。
 ここで注意しなければならないのは、「一定以上の知性」を有さない者についても、少なくとも「娯楽を嗜む」こと自体は可能であるとしている点である。では、「自由な」とは一体何を意味しているのか。

3.「自由な娯楽」とは
 「自由な娯楽を嗜む」という表現から、その「自由」の内容をいくつか想定できる。
 第一に、禁止されるべきとはいえない娯楽を「自由な娯楽」としている可能性が想定される。「一定以上の知性」がある者については禁止すべきでない、すなわち自由だが、「そうでない人」については禁止が及ぶ、ということを正当化するためにこそ、メーワクダメ絶対が打ち出されたと考えることができるからである。この場合、当該言明を抽象化すると、「XするにはYが必要である。Yを欠いたままXをすると、その後にZという不利益が生じるからである。」という適切な形式である。このような形式と解した場合、第二文は、第一文を根拠づけるものと解される。
 では、このような解釈にしたがった場合、より具体的には、何における自由がここでは問題とされているのか。結論を先取りすれば、これは娯楽の種類という客体の選択における自由が問題とされているのである。前述したように、当該言明は違法行為を表現に含む表現物に対する規制(表現内容規制)の文脈でなされたものであるから、「良い子がマネしてもよい」ような行為のみを表現に含む表現物については、「そうでない人」による鑑賞を許すものだと考えられる。
 したがって、当該言明をこの解釈を明示する形でリライトすると、次のようなものとなろう。すなわち、「いかなる行為をも表現に含む表現物を鑑賞することが許されるのは、一定以上の知性を有する主体のみである。一定以上の知性を欠く主体は、表現された行為の是非を弁識できず、鑑賞後、表現された行為を模倣するおそれがあるから、模倣してはならない行為を表現に含む表現物を鑑賞することは禁止されるべきである。」このようなパターナリスティックな考えは、典型的にはエログロの領域について年齢制限を設けてきた「エンタメ」(元ツイから引用)界では、たしかに一般的であろうし、未成年の喫煙を禁止する理路と実質的に変わりはない。被害者が自身であるか他者であるかは、自己決定権の援用可能性の点で異なりはするが、直感的な理解としては概ね同じといってよいだろう。
 第二に、第一の解釈における「自由」が、表現物の内容を問わず鑑賞できるという客体の選択における自由であったのに対し、主体における何らかの自由を意味するものであると解することも可能である。つまり、同種の娯楽を嗜むにしても、知性の有無によってその態様につき、知性のある者のほうがより自由である、という布置で自由を把握することもできる。具体的には、鑑賞において特定の視点に立つことを強制されない、という意味での自由といってよいだろう。たとえば、『キャプテンアメリカ シビルウォー』における、キャプテンアメリカに対する「君の瞳には緑が混じってる」というジモの台詞について、緑の目を嫉妬深さに結びつける英語圏の文化("green-eyed monster")を知っているか否かによって、とりうる解釈の幅は変化しうる(映画というメディアだから無理くりでもシェイクスピア引用しとけ的なところはありそうだが)。異文化の人々の視点に立つこと、ここでは知識の有無によってそれが可能か否かが分かれている。
 さて、自由が「鑑賞において特定の視点に立つことを強制されない」ことであるとしたが、その前提となる知性については、2.概要にて述べられた機能には還元できない、積極的な役割をここで与えていることに注意しなければならない。2.概要における知性の機能は、ここでの自由が問題としている、鑑賞時ピンポイントの時間軸については何も述べていないからである。自由の前提をなす知性の定義をここで明示しておかなければならない。この点について、いわゆる「リベラル・アーツ」の定義を参照してもよいと思われる。自由と知的要素を結びつける発想として、最も典型的だからである。とはいっても、巷には「私の考えた最強のリベラル・アーツ」で溢れかえっているから、ここではそれらの核を記述していると思われる、辞書の記述に頼ることにする。英語の辞書をいくつかひくと、概ね、特定の職業や専門分野に特化するのではなく、より一般的な知的能力を育む教育として定義されている(修辞学や天文学といった、具体的科目は本記事の関心上必ずしも重要ではない)。特定の視点から離脱しうる自由が、知性に依存するという観点からすると、知性の定義につき、世界像の把握において、現にとっている視点とは異なる視点を理解する能力としてよいと思われる。特定の職業や専門性と結びついた視点をとる前に、いかなる視点が存在しうるのか、それぞれの視点において世界はどう写るのかを理解する力を養うことが、「リベラル・アーツ」教育に期待されるものと理解すれば、辞書的意味と整合的かつ、知性の定義はその側面を強調したものだと考えられる。そうすると、自由は、知性によって比較可能となった複数の視点のなかから、いずれの視点をとるかを選択する自由として位置付けることができる。
 このように、主要な概念を定義してきたが、それでは当該言明はどのように解釈されるのか。知性が、多様な視点の存在・内容を理解する能力だとすれば、鑑賞においては、前述の例のように、知性によって異文化の視点からの解釈が可能となる。他方、「自制」を行わせ「自分勝手で情緒的な行動」を控えさせるのは、自身の行為によって影響を受ける他者の視点を理解し尊重することによってもたらされるのであって、これまた知性のはたらきであるということができる。すなわち、当該言明の前段と後段は、知性という親をもつ双子の関係にあるといえよう。例によってリライトするならば、「表現物の鑑賞において、特定の視点に立つことを強制されないためには、複数の他なる視点の存在を理解する知性が必要である。また、知性によって、他者の視点を理解し、尊重することで、鑑賞した表現物による影響による自分勝手で情緒的な行動はとりにくくなる。知性を欠く者は、特定の視点からの鑑賞を強いられ、かつ、鑑賞後に自分勝手で情緒的な行動をとりやすい。」
 しかし、このように解釈した場合、当該言明が、表現規制の必要性を説くものであることを説明できるかが問題になろう。さきほど、「知性という親をもつ双子の関係」としたが、実は、元ツイに挿入された「作品に影響され」という文言が、この双子の間に奇妙な関係をもたせている。すなわち、一応は独立したこの二つの要素が、作品の媒介によって、因果関係に立たされているのである。すなわち、「知性を欠く者は、鑑賞において特定の視点に縛られる。そうした鑑賞をした結果として、その後、表現に含まれたような自分勝手で情緒的な行動をとりやすくなる」という関係としている。さもなくば、双子はどちらも知性の存否によって発生させられる現象としているにもかかわらず、他方では作品さえなければ双子の一方は生じないということを述べていることになる。これを矛盾なく説明するためには、自由な鑑賞は作品を対象とする点で作品の存在を前提はするが、その表現内容や種類を問わず自由な鑑賞は可能であるとしつつ、鑑賞後の行為については、作品の表現内容や種類と知性の欠如の「合わせ技」の結果として「自分勝手で情緒的な行動をとりやすくなる」という理路を採らねばならない。つまり、後者について、知性の欠如によって、他者の視点の存在や内容を理解することを不可能にするから「自分勝手で情緒的な行動をとりやす」いということに加えて、作品の特定の表現内容(具体的には違法行為の表現)もまた同じ効果をもつ、という想定がなされていると解さざるを得ない。
 このような想定は、しかしながら、作品による影響を受けるのは鑑賞時であるということも合わせて考えると、さらなる補足を必要とする。つまり、特定の視点に縛られた状態での鑑賞によって、なぜ、いかにしてその後の違法行為等が惹起されるのかという問いに答えなければならない。そしてこの問いへの応答は、第一の解釈をとる際にも、作品が原因となって知性を欠く者による違法行為が発生するおそれがある、となぜいえるのか、というかたちでで求められることになる。以下では、主要概念がより明確に定義される第二の解釈に基づき、表現物による鑑賞後の行為への影響につき検討する。

4.表現物と視点との関係
 まず、表現物と視点との関係については、一般的に、表現物の性質それ自体が、とりうる視点をある程度制約する一方、視点に応じて表現のもつ意味が異なりうる、という相互規定的関係が想定されると思われる。たとえば、映画ならば、その制作において深く関連する文化がある場合には原則としてその文化の視点が支配的になりやすい一方で、必ずしも鑑賞者は、その文化に内在する価値判断を相対化できないわけではなく、場合によっては批判の対象とすることも可能である、というように。端的な例を出せば、漫画で「美しい」とされているキャラクターに対し、作品内で統一的に「美しい」とされることには異議を唱えることが不可能で、「そういうもの」として読まなければならない一方、自身の美的判断を作品に忠実に作り替える必要があるわけではない。あまつさえ、作品の批評において、作品内の美的基準を批判することもできる。また、教訓めいた台詞を、自身に対する教訓として受容するのか、それとも世迷い言として切り捨てるのか、はたまたそれは作品内やキャラクター間でのみ妥当する真理としてみるのかは視点に依存した処理である。
 さて、当該言明では、知性を欠くことの結果として特定の視点にしか立ち得ない者が、違法行為の表現を含む表現物を、そうした視点から鑑賞することによって、表現された違法行為又はそれに類する行為を実行する、ということが述べられていた。こうした鑑賞後の行為のあり方さえ規定する、「特定の視点」とは一体何を指すのか。おそらく、知性を欠くことにより縛り付けられる先である「特定の視点」とは、その主体にとって唯一とりうる視点で、比較対象をもたないようなものであろう。あるいは、「一定以上の知性」という程度の問題であることを窺わせる表現に鑑みると、異なる視点を理解するための一定以上の力があって初めて立ちうるようになる、いわばレベルアップによって解放されるような視点を持ち得ない主体のもつ視点の選択肢は、いずれであろうと鑑賞によってその後違法行為を実行させるようなものであるといえる。つまり、「違法行為を表現する表現物の鑑賞後に違法行為をしないような視点」は、知性の欠如した者には、または少なくともそのような者の一部には持ち得ない、ということを前提しているといえる。
 したがって、知性を欠き、「違法行為を表現する表現物の鑑賞後に違法行為をしないような視点」に立ち得ない者は、鑑賞後に違法行為をするから、鑑賞の余地さえ与えないよう表現規制をすべきだ、ということを当該言明が述べていることとなる。同語反復の響きがあるが、裏を返せば「違法行為を表現する表現物の鑑賞後に違法行為の実行を決定づける視点」の存在と内容が、鑑賞及び違法行為の実行に先立って特定でき、かつ、一定以上の知性がない限り当該視点にいわば縛り付けられることを示す限りにおいて、その謗りは免れよう。しかし、残念ながら、私はそのような特異な視点にアクセスできるだけの知性をもたない。したがって、このような視点の存在可能性及びその内容についてのより詳細な考察が必要であろう。卑近な例を考えれば、いわゆる「正義のヒーロー」による暴力を目撃したのち、暴力をふるう幼児の視点がそれに近いのだろうが、それはその視点における鑑賞によるのではなく、まさに知性の欠如ゆえに他者の視点を意識すらしないがための行動であろう。双子の間に成立するとしたはずの因果関係を、親と子の因果関係とすりかえているにすぎないように思われる。幼児の視点による表現物の鑑賞が、まさにその行為の原因であることを必ずしも意味しないからである。よってこの例は、不適切か、より詳細な説明を要すると思われる。

5.表現規制との関連における一応のコメント
 たしかに、第二の解釈にしたがったとき、表現物の鑑賞によるのか他者の視点への無理解によるのかを区別できず、かつ、他者への視点の無理解が根本の原因であるとしても表現された違法行為の模倣が現に存在するならば、「大本」となる知性の欠如の解決は無理にしても、暫定的に疑わしい表現物の鑑賞を制限するという方策はありうる。だが、仮に他者の視点への無理解と鑑賞による影響とが区別不能なほどの一体をなすとしても、違法行為の原因の「容疑者」として、他者の視点への無理解と不可分であるとした、違法行為の表現を含む表現物のみを単体で挙げることはもちろんのこと、それに基づきゾーニング等のより緩やかな規制ではなく表現自体を規制することには、未だハードルがあると言わざるを得ない。とりわけ、表現内容規制は、表現中立規制に比して厳格な審査に服すべきとの見解が憲法学説では有力であるし、仮に利益衡量論に沿った判断をするにしても、所論の違法行為の防止の必要性が、表現内容規制という強い規制を行うだけの正当化根拠とは判断されないであろう。
 ただし、表現による影響の存在の認定は、必ずしも実証的なデータにより示されるべきことを意味しない。実証的データは認定のための十分な根拠にはなりえようが、その入手は極めて困難であろうと思われる。違法行為を実行した者についてはともかく、「知性を欠く者」をいかなる数量的要素に還元すればよいのか(EQの値などを参照するのだろうか、そもそもEQを測定している者はごく一部にすぎないのではないか)、「表現による影響」を示すにしても、それをいかなるデータによって判断すべきか(たとえば本人の認識が必ずしも正しく因果関係を捉えているとは限らない)については論争的であろう。たとえ、表現内容規制を行っている国家と行っていない国家とで犯罪率の比較を行うにしても、その差異が果たして表現規制の有無によって生じたものかどうかというのは、統制困難な外部要因の作用もあり特定が困難であろうと思われる。

6.結びに代えて
 以上、当該言明についての整合的な解釈を試みるとともに、それぞれの解釈を採用することに伴って挙証責任を果たすべき事項を主に4と5とで指摘した。しかし、挙証責任の指摘は思考責任の転嫁ではない。本記事を書くにあたり、当該言明の内在的理解を追究する性質上、外部のテクストの参照は極めて限られたものに留まった。したがって、以上で触れたトピックにつき真剣に論じようとするならば、当然アクセスすべき学問領域にアクセスできていないことはここで明示しなければならない。
 また、本記事では二つの解釈を想定したが、この二つは必ずしも排他的ではない。主体における自由と客体についての自由とは両立しうるからである。さらに、このような主客の二項対立の下でも、本記事で扱った解釈は、それぞれの一例にすぎないうえに、このような二項対立では捉えられないが整合的な解釈も存在しうるかもしれない。ツイートという短い文章にある程度の独立性を認めて解釈をすることには、当然に不確定性がつきまとう。規則のパラドックスよろしく、解釈による意味付与には目が眩むほどのバリエーションが存在しうるのである。本記事で示した解釈も、そのなかで一応の整合性を保つことを必然性のように読み替えたにすぎない。
 なお、このことに関連して付言するならば、意味付与における不確定性は、ディスコミュニケーションの原因となりうるという側面をもつ一方で、世界が豊富な意味に開かれたものであること、固定化された意味を乗り越えうることを教える。たしかに、いかなる意味でもありうるということは、いかなる意味ももたないということと表裏一体である(「意味」はその他の可能性の否定のうえに成り立つものだから)。もし、意味というものに溺れそうならば、そこが本当は浅瀬であることを思い出すべきだし、世の無意味さという枯れた泉で立ちすくむならば、その泉は人工温泉であることを思い出し、蛇口を捻るべきである(本稿の第二の解釈は蛇口を捻りすぎているきらいがあるが)。
 おわり!!!